時事雑感 BN    (2019年3月12日更新)

  • 2019/3/12

 

 

時事雑感BNリスト

「大統領、吠える。」(2019年2月20日)

「もうひとつのフェイク・ニュース」(2019年2月25日)

「なんとなくバンクシー」(2019年3月1日)

 

 

時事雑感 「大統領、吠える。」

 米国のトランプ大統領が、また、吠えた。吠えられたのは、また、CNNのアコスタ記者。2月15日、非常事態宣言署名のプレス発表での話しだ。質問したアコスタにトランプが応じた。CNNはフェイク・ニュースだ!、としたうえで、” It’s a Fake Question! ”。根拠のない質問はするな、とでも言いたいのか。どこかで、聞いた気がする。

フェイク・ニュース。もはや「」(鍵括弧)も、解説もいらないだろう。2016年、米国大統領選挙が行われた。トランプが大統領に選ばれた。そのキャンペーンを通じて、2015年あたりから、この言葉は広がった。2016年、「Post-Truth(真実後)」が、「Word of the Year(その年の言葉)」に選ばれた。選んだのはOED(オックスフォード英語辞典)。OEDによると、2015年5月以降、この言葉の使用頻度が急増した、という。類義語が増殖中。

「フェイク」があるなら、「事実」もあるはずだ。日常的な直観だろう。「嘘をつくな、本当のことを言え」。硬軟の違いこそあれ、同じような事は、言われたこともあるし、言ったこともある。つまり、事実は、どこかにあるはずだ、という訳だ。

色々な機会に、フェイク・ニュースを話題にしてきた。世代を問わず、ちゃんと本当のことを確かめるようにしたいと思いました、という感想が少なくない。ただ、一人ひとりの普通の僕らに、そんなことが、できるのか。技術的にも、時間的にも。独自にファクト・チェックをしている報道機関もある。そのための専門機関もある。ただ、チェック結果が一致しないこともあるという。専門家が、組織的に、動いても限界があるということだ。

「戦争の最初の犠牲者は真実」。アイスキュロス以来、何人もが繰り返し言ってきた。米国も、英国も、そして日本も、戦時ではなかろう。真実や事実は、どうやら、平時でも犠牲になり始めているのかもしれない。いや、待てよ、非常事態か。

(2019年2月19日脱 富田与)

 

 

時事雑感 「もうひとつのフェイク・ニュース」

 英国BBCのホームページに、こんな記事がある。「Fake news: What is it? And how to spot it」。内容は、逐次、更新されている。2月18日更新のものを見た。フェイク・ニュースには2種あるという。「意図的な嘘」と「不確かな情報」。何か目的があって、わざと嘘を伝える場合と、ちゃんと確認せずに、うっかり間違った話を伝えてしまう場合、と言い換えてもいい。受け取る側としては、どちらにしても、事実ではない情報を、受け取ることになる。時には、それを信じて、拡散までする。

ここまでなら、ある意味、分かりやすい。ニュースの顔をした、足の速い「うわさ」のようなものだろう。ただ、ほかに、少なくとも、もう1種類のフェイク・ニュースが、あるような気がする。事実でない情報が広がるのではなく、何を信じていいのか分からなくなる。突然の信頼喪失だ。

30年ほど前、ペルーにいた頃の話。ガルシア政権末期の経済は混乱を極めた。対外債務危機、ハイパー・インフレ、低成長、失業、貧困。いまのベネズエラに、どこか、似ている。そんな折、政府統計は実態を反映していない、という見方が、ニュースを通じて、広がった。報道、国際機関関係者、研究者が、騒然となった。議会でも審議された。政府統計は、信頼できない。大方の見方だった。

こういうことだ。報道機関は、政府統計発表のたびに、その数字から、ペルーの経済情勢を説明してきた。そこに「意図的な嘘」や「不確かな情報」がなければ、フェイクではない。ところが、それまで信頼され、当然信頼できるはずだった情報から、にわかに、信頼が失われた。統計の方が、フェイクだったかもしれない、という訳だ。いったい、どの数字を信じて、政策を、経営を、日々の生活を、そして、将来設計を、考えればいいのか。幸い、ある民間の調査会社が発表する数字が信頼され、それがしばしば引用された。

フェイク・ニュースに加担するのは、情報の送り手や、情報の受け手だけではない。その情報の信頼性を担保すべきもの、例えば、信頼できる数字を発表すべきもの、も加担者のひとりだ。平時にあって、事実や真実を、犠牲にしてはならない。

(2019年2月24日脱 富田与)

 

 

時事雑感  なんとなくバンクシー

今年になってから、バンクシーにはまっている。と、いっても、バンクシーの作品を追いかけて、世界を駆け回るだけの時間と、資金はない。作品と言えそうなもので、実際に見たのは、映画『イグジット・スルー・ザ・ギフトショプ』だけだ。ちょっと、不思議な体験なのだが、作品そのものにはまっているわけではない、ようだ。

いま、3月1日現在、面白がっているのは、バンクシーやその作品についての言説、語りだ。バンクシー自身のものも含め、かなりある。バンクシーが、どう語られているか。語りの内容だけではない。誰が、どんな時に、どんな反応を期待して。ここでも、書評で、『バンクシー ビジュアル・アーカイブ』を取り上げた。

バンクシー。本名・経歴等非公開。顔も声も公開されていない。グラフィティ・ライター、グラフィティ・アーティスト、映画監督、社会活動家、「破壊者」、「芸術テロリスト」などなど、肩書は多い。作品は、タグ、ステンシル画、ステンシルと肉筆の組み合わせ、インスタレーションなどなど、これも色々ある。そもそも、どこまでが、バンクシーの意図した作品なのか、作品と言えるのか、迷う。

まことに、説明しにくい。その説明のしにくさに苦戦している、語り手の、語り方が、面白い。面白おかしい、という訳ではない。バンクシーやその作品を語ろうとすると、どうやら、言わず語らずにしてきた、社会の隠れたルールや合意に、触れざるを得なくなるようだ。

そんな言説たちを追いかけていると、つい、語りの仲間に、加わりたくなる。そして、はまる。いや、ひょっとすると、はまったのは、バンクシーの術中の方にかもしれない。

(2019年2月29日脱 富田与)

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