時事雑感  芸術祭に行く ディレッタントなマレビトとして(1)(2)(3)

  • 2019/4/25

 

 

 時事雑感  芸術祭に行く ディレッタントなマレビトとして

 

(1) アートをまとめて見る

 もともと日本語には外来語が多い。今世紀になってからも、新しい言葉が普及している。ビエンナーレ、トリエンナーレもそうした言葉の仲間だろう。ビエンナーレは2年に一回の芸術祭、トリエンナーレは3年に一回だ。どちらもイタリア語起源である。芸術祭のなかには、国際芸術祭と銘打ったものもある。国際という接頭辞がない芸術祭でも、国外作家の作品にも出会うことが多い。

何年か前から、年に幾つかの芸術祭には出かける計画を立てることにしている。実際に出かけられるのは、残念ながら、あまり多くはない。今年は、瀬戸内国際芸術祭とあいちトリエンナーレに。あいちトリエンナーレはさほど遠くはないが、瀬戸内国際芸術祭は遠い。ただ、多少遠方でも、芸術祭にまで出かけなければ、コンテンポラリー・アートの作品をまとめてみる機会はなかなかない。

名古屋市美術館、豊田市立美術館、三重県立美術館などの常設展にも、コンテンポラリー・アートの作品はある。とはいえ、ある程度の規模のインスタレーション作品を、まとめて見られる機会は、極めて限られている。いや、ほとんどない。ある程度の費用をかける意味はある。これはどの芸術祭に行くかで違いは大きいのだけれど、有名作家の作品に出会えることはもとより、あまり聞いたことない作家や、若手の作家の作品にも出会える。最近では、美術館でも作家と交流できる機会は増えた。それでも、直接、長い時間話せることは、めったにない。芸術祭では、若手作家が会場にいることも多い。

以前からやっている美術館巡りの延長のつもりで始めたのだが、最近では、研究テーマのひとつのようにもなっている。しかしながら、美術関係の専門家ではない。あくまで素人、ディレッタントだ。それでも、美術以外の視角から、見えるものもあるかもしれない。( A. T. )

 

(2) 場所を味わう

 芸術祭と美術館との大きな違いは、その場所ならではの作品、いわゆるサイト・スペシフィックな作品が見られることだ。問題は、その場所だ。古民家、工場跡、野原、あるいは公園のようなミクロな場所と、妻有(大地の芸術祭)、亀山(亀山トリエンナーレ)、愛知県(あいちトリエンナーレ)のようなマクロな場所があるような気がする。

ミクロな場所は、その場にある視覚や聴覚、あるいは触覚、場合によっては嗅覚で直接感知できる要素が構成する文脈と、作家がそれらの文脈から創り出した作品との並置が面白い。アイキャッチで使っているレアンドロ・エルリッヒの「空の池」も、キナーレの外見をそのまま使った、つまり視覚によるミクロな意味でのサイト・スペシフィックな作品といえるだろう。大地の芸術祭で作られたものだ。

マクロな場所にも、もちろん文脈はある。ただ、そこにある文脈は、感知するものというよりは、理解あるいは解釈するもののように思える。地理や歴史や伝統文化に関する知識が必要になる。これもやはりアイキャッチで使っているあいちトリエンナーレ2016のヴァルサン・クールマ・コッレリの彫刻は、作品そのもののコンセプトの他に、愛知県の地理を知らなければ理解するのは難しいだろう。

マクロな意味でのサイト・スペシフィックなものの延長には、芸術祭が開催されている地域そのものがある。その地域で、食べたり、見たり、土産を買ったりできる。地域自体は、アート作品ではないが、芸術祭の一部には違いない。アート作品とは別に、芸術祭のもうひとつの楽しみは、あるいは鑑賞の仕方といってもいいのかもしれないが、その地域で、食べたり、見たり、土産を買ったりすることだ。サイト・スペシフィックな作品を鑑賞する手掛かりが見つかるかもしれない。( A. T. )

 

(3) 人と話す

 芸術祭での僕の鑑賞はかなり我がままだ。美術館での鑑賞も我流ではあるのだけれど、それ以上に、ディレッタントが、我がままに鑑賞することを許してもらえそうな雰囲気が、芸術祭にはある。ボランティアが多い。ボランティアの活動は、かなり広範なようで、芸術祭開催中のこまごまとした仕事のほかに、開催前や開催後の運営に関わる仕事、アート作品の作成に関わる仕事などがあると聞いている。たくさんのボランティアの方が会場にいると、話しかけやすいし、しばしば話しかけられたりもする。そんな時には、作品を制作した時の話や、鑑賞のアイディアなんぞの話もできる。

他の人の話を聞くと、ボランティアから話かけられたことはない、と言うから、僕はよほど無防備なのだろう。外国人観光客からもよく話しかけられる。日本人から英語で話しかけられたことも何度かある。これは不思議だ。おまけに、なぜか、陶芸作家やカメラマンと間違えられることが多い。誰かに似ているのかもしれない。

いずれにしても、僕も含む鑑賞者はもちろんとして、作家の多くとボランティアの一部も、その土地にとっては、マレビト、だろう。最近はカタカナ表記が多いようだが、外来語ではない。漢字では、稀人、と書く。来訪者、つまり旅人のことである。お互いにマレビトゆえに、日本人から英語で話しかけられても、陶芸作家やカメラマンに間違えられても、あまり気にはならない。少なくとも、怒ることはない。相手がディレッタントである可能性も高い。と、なんとなく感じてしまう。実際には専門家やプロの作家もたくさん来ているのだろうけれど。そこでは、我がままな鑑賞の意見交換もあまり抵抗がない。恥ずかしい思いをしたことはないのか、と尋ねられれば、実際には何回もあるけれど。ただ、総じていえば、芸術祭には、ディレッタントなマレビトたちが集まっているような感じがする。美術館では、なかなか、そうは感じられない。ディレッタントな研究テーマが、この辺に、隠れていそうな予感する。( A. T.)

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