書評 都市と視線3題  『都市の視線』 『〈個室〉と〈まなざし〉』 『ファッション』

  • 2019/5/18

 

 

『増補 都市の視線  日本の写真 1920 30年代』

 

『増補 都市の視線  日本の写真 1920 30年代』

 飯沢耕太郎著 平凡社ライブラリー 2005年

 

名古屋市美術館のミュージアムショップでたまたま見つけた。都市。視線。2つの気になる単語が並んでいた。都市は、都市貧困や植民地都市の研究で追いかけてきたテーマだ。視線は、昨年のビブリオバトル以来、絵巻物を見る時には必ず確かめるテーマになった。写真を撮る時にも撮られる時にもカメラ目線とは言うけれど、美術館などで写真を見る時に視線を気にしたことはあまりなかった。

大正から昭和にかけての日本という時間と場所を特定しながら、都市、視線、そして写真を、10人の写真家の評伝という形で集約している。冒頭の、表題と同じタイトルの「都市の視線」のなかで、飯沢はこの時期の都市の特徴として、速度、密度、多層性の3つを共通要素として指摘する。これら3つの要素を捕らえるためには、人の目とカメラが一体化した「写真眼」のような新しい視覚が必要だという。同じ時期、フォト・ジャーナリズムは被写体と写真家あるいは読者との間に、見るものと見られるものという視線をめぐる関係を生み出し、小型カメラの普及も、どこでも新たな発見を撮影できる、うろつく視線とも言うべき視覚を生んでいた。こうして、都市のためのメディアとしての写真が形成された、と飯沢は言う。

この本のメインとなっている10名の写真家の評伝のなかで、福原信三と木村伊兵衛が気になった。福原信三は、自然と光の調和を強調し、自然の印象をすばやく切り取る「俳句写真論」を唱えた。また、経営者として資生堂を化粧品メーカーとし、企業のトータル・イメージの形成に力を入れた。自然の刹那とファッションという都市の視線が同居しているように感じた。木村伊兵衛は、小型カメラ・ライカを使った、瞬間の表情を巧みに捉えるその人物写真で知られる。それらがフォト・ジャーナリズムを通じて読者に届けられる。飯沢は、写真家の思惑や見込みを裏切った被写体が画面に突然侵入し、それを、人の視線と一体化した小型カメラを通じて定着する、と木村の写真を説明している。どちらも、密度や多層性という要素が、瞬間、という速度のなかで濃縮しているとも取れそうな気がした。(A.T.)

 

 

『〈個室〉と〈まなざし〉 菊富士ホテルから見る「大正」空間』

 

『〈個室〉と〈まなざし〉 菊富士ホテルから見る「大正」空間』

武田信明著 講談社選書メチエ 1995年

 

この本は『これから出る本』で見つけ、出版を待って購入して読んだ。20年以上前の話である。タイトルに菊富士ホテルとあったのがきっかけだ。大学生の頃、NHKの日曜20時50分からのドラマで『まあええわいな 本郷菊富士ホテル』を見た。当時、何となく気にしていた竹久夢二が主人公だった。文豪などが集住していたこのホテル、と言っても下宿屋のようなものだけれど、に興味が湧いた。当時やっていた同人誌『アディアホラ』の仲間たちと、あんな下宿屋があったら皆で住むのも悪くない、と話したのを覚えている。同じ頃に出版された近藤富枝の『本郷富士屋ホテル』も読んだ。記憶がいささか曖昧だがドラマの方が後だったと思うのだけれど。

『都市の視線』を読みながら思い出して再読してみた。大正の東京という時間と場所を特定し、そこでの「まなざし」が論じられていた。ただ、こちらは文学論である。しかも、都市そのものというよりは、都市の中にある、あるホテルの、それもある一室に焦点が当てられている。新館50号室。最上階の塔の中にあるその部屋の住人は坂口安吾だった。

かといって50号室の話ばかりが続くわけではない。安吾が自室で執筆している様子を写した林忠彦の一枚の写真の絵解きをしながら、双眼鏡という手掛かりを見つける。なぜ双眼鏡なんだ。それからの展開は双眼鏡を頼りに推理を進める探偵小説のようでもある。視線、いや、まなざしは、個室を起点に、それがあるホテル、そこから見える東京、そこから繋がる地方や外国へと、次々に移っていく。そして最後は、再び50号室へ。

読了後、もういちど『都市の視線』を思い返した。速度、密度、多層性という都市の要素は、どちらにも共通しているような気がする。『都市の視線』では、それを写真で表現した写真家が論じられ、この本では、それを文章で表現した作家が論じられている。ただ、作家の部屋にあった光学装置、例えば双眼鏡、からは、写真の場合と同様に、そこには都市への視線、あるいは、まなざしが潜んでいたようだ。(A.T.)

 

 

『ファッション―蝶は国境をこえる―』

 

『ファッション―蝶は国境をこえる―』 森英恵著 岩波新書 1993年

 

普段、それほどファッションを気にすることはない。ましてブランドにこだわることは全くない。一本だけ、ある偶然で、ハナエ・モリのネクタイを持っている。自分で買ったものだ。蝶々の絵柄が気に入って店頭で見ていると、店員が、かなり汚れがあるのでこの値段で、と数字を見せてくれた。買うことにした。もう、かなりくたびれてしまったネクタイを見ながら、その時のことを思い出した。僕の視線を件の店員は見ていたに違いない。

この本の存在はかなり前から知っていた。手に取ったことも何度かある。その度に、今度にしよう、と思った。急いで読みたい内容でもないと考えたからだ。今回は違った。古書店でこの本を見つけた。ページをめくりながら、ある一節が気になった。少し長い。「パリでは、パーティばかりではなく街でもレストランでも、女は常に男に見つめられている。その視線が心地よい刺激になるらしい。パリで暮らしている素敵な日本女性が久しぶりに日本に帰ってきて『アァ、故国はのんびりしていていいわ』と、数日はお寿司をつまんだりしてくつろいでいたが、『温泉につかっているみたいで、緊張感が無くて不安だ』といって、やがて大急ぎで帰っていった。確かに日本にはそれがないから、男も女ももうひとつなのかしら」。

しばらく前ならば、そうかもしれないと素直に納得したかもしれない。ところが、これを読んだ時、すこし意外に感じた。というのも、美人画やら絵巻物やらで視線を見るようになって気が付いたのだけれど、個人の肖像画を除くと、欧米よりも日本の方が視線を丁寧に描いた絵画が多いような気がしていたからだ。これは、2体以上を組み合わせた人形やノベルティでも同じようなことが言えそうに思う。

読了後も、気になっていた一節については、納得しきれないものが残った。ただ、ファッションに関係ある行為のなかでは、確かに、いたるところで複数の視線が常に存在していることはよくわかった。絵画や写真のように、描かれたり写されたりするのとは別の形で、ファッション作品の回りには、その制作過程やそれが使用される時、あるいは買い物客がそれを選ぶ時にも、さまざまな視線が交錯している。写真家で経営者の福原信三が、資生堂のトータル・イメージに力を入れたも頷ける気がした。(A.T.)

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