書評 BN (2019年5月24日更新)

  • 2019/5/22

書評BNリスト

書評 『バンクシー ビジュアル アーカイブ』(2019年2月13日)

書評 学部推薦図書に推薦した本(1)『華氏451度』(2019年2月21日)

書評 学部推薦図書に推薦した本(2)『感性は感動しない』(2019年2月23日)

書評 学部推薦図書に推薦した本(3)『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』(2019年2月24日)

書評 プレイバック・ビブリオバトル(1)(2)『君の膵臓が食べたい』(1)(2)(2019年3月13-14日)

書評 プレイバック・ビブリオバトル(3)『イラクサ』(2019年3月15日)

書評 プレイバック・ビブリオバトル(4)(5)『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』(1)(2)

(2019年3月16-17日)

書評 読書会で読んだ本(1)(2) 『国体論 菊と星条旗』(1)(2) (2019年3月28-29日)

書評 読書会で読んだ本(3)(2) 『この世界が消えたあとの科学文明の作り方』(1)(2)(2019年3月31日―4月1日)

書評 コンビニ2題(1)『コンビニ外国人』  四日市大学の卒業生登場(2019年4月10日)

書評 コンビニ2題(2)『コンビニ人間』(2019年4月13日)

 

 

書評『バンクシー ビジュアル アーカイブ』

『バンクシー ビジュアル アーカイブ』(ザビエル・タピエス著 和田 侑子訳)

2018年 グラフィック社

 

2018年のアートシーンを沸かせた絵画「風船と少女(Girl with Balloon)」。10月5日、ロンドンのオークションハウス・サザビーズで、落札直後に、額縁に仕掛けられたシュレッダーで絵の下半分が短冊状に切断された。落札額は、100万ポンド(約1億5千万円)。

バンクシーはこの絵の作者である。『バンクシー ビジュアル アーカイブ』の初版第1刷の発行は、2018年7月25日。「風船と少女」の出来事を挟んで、12月25日に第2刷が発行されている。帯には、「芸術なんか切り刻め シュレッダー事件で大反響 『バンクシー』のすべてがわかる作品集 重版出来」とある。残念ながら、「すべて」ではないが。

街路のグラフィティ・アーティストとして知られるバンクシー。それが何者なのかを知る人は限られている。本名や経歴は公表されていない。本書でも、バンクシーの活動開始は、解説文では、2002年、ブリストルのバートンヒル地区とある。ところが、掲載作品は1999年から始まっている。野外のグラフィティのほか、大規模なインスタレーションや屋内展示作品など52点が、1999年から2018年まで制作年順に並べられ、写真と文章で紹介されている。時期ごとに7つの章に分けられ、各章の初めには、その時期のバンクシーの活動を点で示した世界地図と、美術館等での展覧会の一覧表が付けられている。

「風船と少女」も最初はグラフィティだった。本書では、「いつだって希望はある(There’s Always Hope)」(2002年)で、そのイメージが紹介されている。バンクシー作品か、と騒がれ、小池東京都知事が「カワイイねずみ」とツイートした作品のイメージは、本書の「クラックを食べればいいじゃない(Let Them Eat Crack)」の「ねずみ」に似ている。

作品は、見開き2ページを使って紹介されている。「写真」、「添えられた言葉」、そして「描かれた場所」、更に、それを巡る第三者の言説。取り合わせの妙が、たまらない。

(2019年2月12日脱 富田与)

 

 

 

書評 学部推薦図書に推薦した本(1)『華氏451度』 レイ・ブラッドベリー

『華氏451度』 レイ・ブラッドベリー著、宇野利泰訳、1975年、ハヤカワ文庫

 

この本を、初めて手にしたのは、高校生の時だった。かなり前の話だ。何人かの読書仲間がいた。そのなかの、一人が教えてくれた。その頃、別の一人と、ホームズ全作読破を競っていた。長編4、短編56だから、それほど時間がかかるとも思えない。ところが、3カ月ぐらいはかかってしまった。ホームズの短編に慣れてしまったせいか、読み始めは、少し、いらいらしたのを覚えている。薦めてくれたのが、男の子だったら、早々に、退散していたかもしれない。

久しぶりに、この本を手にしたのは、2004年。マイケル・ムーア監督の映画『華氏911』が発表された時だ。それだけではないような気もするが、ブッシュ政権批判の映画として知られる。「911」は、2001年同時多発テロ事件の日付でもあり、救急電話の番号でもある。対テロ戦争の時代の空気に、ブラッドベリーがこの本を書いた1950年代米国のそれを読んだのは、ムーアだけではないだろう。

また、似たような空気が吹き始めている。50年代米国、テレビが普及し、センセーショナリズムが日常化。マッカーシズムの煽りで、政権批判は憚られた。いまはインターネットだ。テレビ以上に煽ってくる。トランプは、プレス批判で、見る者の眼を事実から逸らさせる。そして、本離れ。通奏低音にあるのは反知性主義だろう。案の定、2018年、テレビ映画化。

華氏451度は、紙の燃焼温度。この本では、本が禁止され、焼かれてしまうような、近未来が描かれている。その世界、ある時までは、それで幸せだった。さて、続きは各々で。

(2019年2月20日脱 富田与)

 

 

書評 学部推薦図書に推薦した本(2)『感性は感動しない』 椹木野衣

 『感性は感動しない』 椹木野衣著 2018年 世界思想社

 

現代アートを、時々、見に出かける。そんな話をすると、どうやって見るんですか、分かりますか、と同じような反応が返ってくる。そうじゃない時も、たまには、あるけれど。批評家でもなく、専門の研究者でもなく、ましてや作家でもない僕に、答えられるはずがない。かといって、見ていないわけではなく、まったく分からないわけでもなく、教材に使うことすらある。教材と言っても、もちろん、美学や美術史や芸術学の講義ではない。卒論指導や国際関係の講義で使うことが多い。

自分が、現代アートを、あるいは、ほかの絵画などを、どんなふうに見ていたのか。この本は、それを言葉にしてくれているようだった。それを言葉にできるか、できないか。専門家と素人の違いは、そんなところにあるのだろう。もちろん、言葉にするといっても、独り言のことではない。誰かに伝える言葉だ。彼の『シュミレーショニズム』は、論文で参照させて頂いたことがある。同世代のせいもあるのだろうか。頷ける。

この本『感性は感動しない』を読んだ時も、同世代を感じた。無理もないのだ。この本は、明らかに、人生のある時期に照準があっている。青春。高校生、受験生、そして大学生。筆者と僕は、間違いなく、違う場所で、同じ時代を、似たような人生の時期に経験している。読者としても、そうした人生の時期にある人々を想定しているようだ。読み易い。

巻頭の表題作「感性は感動しない」を除くと、全体が三部構成。「Ⅰ 絵の見方、味わい方」、「Ⅱ 本の読み方、批評の書き方」、そして「Ⅲ 批評の根となる記憶と生活」。それぞれに12~13のエッセイがある。色々な読み方ができそうな気がする。

(2019年2月20日脱 富田与)

 

 

書評 学部推薦図書に推薦した本(3)『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』 マレー・シャナハン

『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』 マレー・シャナハン著 ドミニク・チェン監訳 2016年 NTT出版

 

今年まで、「現代社会と人間」という講義を担当してきた。前任の担当者から引き継ぐとき、多少迷った。あえて「現代社会」という以上、現代以前の社会や、現代以後の社会のことも考えないわけにはいくまい。「人間」という以上、人間以外の存在のことも、やはり、考えざるをえないだろう。とはいえ、未来はこうなる、という「おみくじ」のような議論には、どうも馴染めない。まして、それを材料に講義を組むのは、憚られる。

幸い、適当なテキストが見つかった。最初は、『21世紀の課題に備えて』(ポール・ケネディ著 草思社)。しばらくして版が切れてしまった。次は、『経済と人類の1万年史から、21世紀を考える』(ダニエル・コーエン著 作品社)。これは今年まで使えた。この『シンギュラリティ 人工知能から超知能へ』の問題意識にも、同じようなものを感じた。

「まえがき」にこうある。「(前略)特定の未来予測のシナリオに加担することなく、特定の時間軸を前提とすることもなく、未来におけるいくつかの可能なシナリオを検討する(後略)」。実際に読み始めてみると、さすがに、専門外の話だけあって、専門用語には手古摺った。後ろの方に、グロッサリーもついてはいるが、それだけでは足りなかった。ただ、話の筋自体はわかり易い。少なくとも、頷いたり、首を傾げたりはできる。初めて読了したのは、2年ほど前。その後、様々に報じられるAIの話題を考えるときの、ひとつの参照点になっている。

蛇足のような話だが、この本を読みながら、高校時代に、出たばかりの『第三の波』(アルビン・トフラー著 日本放送出版協会)を読んだ時のことを、思い出した。当時の、僕には難解だった。ただ、その後のある時期、しばしば、思い出さざるをえない本となった。もちろん、いまから見ると疑問もあるが、コンピュータ社会の在りようを先取りする内容だった。少し背伸びをして、少し難解だと思う本に手を出すのも、たまには、悪くない。

(2019年2月20日脱 富田与)

 

書評 プレイバック・ビブリオバトル(1)(2)『君の膵臓が食べたい』

(1)

この本は、2018年度のビブリオバトルでも、紹介された。しかも、2人の学生が、別の回に。2人の話に、気になる共通点があった。情景描写が細かくてイメージしやすい、という。この作品は映画化されている。映画と比べて、どちらが面白いか、と同じ質問をした。それに対する、答えである。自分が紹介しない回には、どちらの学生も会場にはいなかったので、真似、ではない。

専門柄、新聞に掲載された、一枚の写真、たとえばテロ事件現場周辺での、一枚の写真のイメージが、記事の本文以上に雄弁であることは、しばしば、経験する。2人の学生の話とは、さしずめ、逆である。読まないわけには、いかない。

冒頭に、女の子の死がある。そして、死の予感があったことを、うかがわせる。男女ふたりの高校生を中心に話は進む。ふたりは同級生。笑いと剽軽さが、不安や悲しさと同居して、恋なのかどうかを迷い迷わせながら、意思の疎通と不通の綱渡りをする二人のやり取りが、面白くて、切ない。青春っていいな、とつぶやきたくなる。でも、きっとしんどい。ただ、予感の実現を覚悟して読み進めるだけでは、終わらなかった。読了後、まずは、すなおに泣けた。あとから、少し、ゾワゾワした。そして、頷けた。

いろいろに泣ける。小学校に入る前、砂場で、砂山を作るのが気に入っていた。こんな形にしよう。高さはこのくらい。トンネルもひとつ。完成間近になると、決まって、崩れる。時にはトンネルが、時には、飛んできたボールがぶつかって。まずは、そんな感じで、泣けた。色々な涙が、しばらく続いた。

何ってことはない日常の人間関係のなかで、自分が知らない事情を、その人は抱えているかもしれない。そんな関係は、どこにでもありうる。自分のまわりにも、あるかもしれない。きっと、あるに違いない。ひとしきり泣いてから、そう思った。少し、ゾワゾワした。

 

(2)

さて、ビブリオバトルでの話の、話だ。確かに、すんなりと物語に入っていける。場景がイメージしやすいからに違いない。ただ、情景描写は、どちらかというと、多くはない、気がする。固有名詞が少なくて、会話が多い。具体的な地名は出てこない。多少、場所が特定できるところもあるにはある。ただ、あまり気にはならない。場景も、どこにでもありそうな日常、あるいは学園生活のワンシーン。あまり説明は、要らない。

これかも知れない。自分のよく知った場所と、引き付けやすいのだろう。人物名も、あるような、ないような。もちろん呼称はある。呼称の多くは、その場面での、その人物の、キャラの説明。一人の呼称がコロコロと変わる。地の文が少ない代わりに、テンポのいい狂言回しのような。なるほど、これも、自分が知っている誰かと、引き付けやすい。場面も人物も、ロールプレイ向きなのかもしれない。突き放し過ぎか。

心憎いのは、本名を知りたくなるような仕掛けが、点々と。ちゃんと、最後まで、引っ張ってくれる。そして、最後には、ちゃんと、物語を振り返らせてくれる。ビブリオバトルでの話、何気に、合点。

ただ、頷いたのは、そこではない。仕事柄、世相や社会は、遠景として見ることが多い。遠景にすると、初めと終わりを付けやすい。ドキュメンタリーのような近景だと、今度は、当事者には寄り添えるのだけれど、オープンエンドになってしまう。終わりがない。この本は、中景、なのかもしれない。「小説は、最後のページまで終わらないと、信じていた」。ところが、彼が信じたようには、ストーリーは進まなかった。あたりまえのようにある日常も、宣告されたシナリオも、所詮、仮設に過ぎない。普段は、忘れている。そんなことを、思い出させてくれた。世代を超えて読まれているのも、分かる気がした。(2019年3月12日脱 富田与)

 

書評 プレイバック・ビブリオバトル(3)  『イラクサ』

『イラクサ』 アリス・マンロー著 小竹由美子訳 2006年 新潮社

アートや陶芸の作品を見るときは、いつも、対話している。誰かが、一緒のときは、その誰かと。ただ、そんなことは、めったにない。作品との対話、といえば聞こえはいいが、実際には、自問自答。読書ではこれができない。あくまで、僕は、という話だが。読書会とも違う。調べ読みとはまったく違う。以前は、していたような気もするけど。

きっかけは、ビブリオバトルだった。紹介したのは高田先生。ボタニカルな装丁が印象的な、クレスト・ブックスの一冊だ。仮フランス装。ほかではあまり見ない。

読書での、対話を、経験した。自然に生まれた対話だ。作者との対話、という名の自問自答だったり、本当の自問自答だったり。例えば、こんな感じだ。作品を、読み終えるたびに、どうでした、とマンロー。それに、僕が答える。すると、おや、泣いてらっしゃるのね。じゃ、次はこれね。それが終わると、おや、少し軽かったかしら、じゃ、こんなのは如何。さらに続く、その次は、これ、少し落ち着けるわよ。

「恋占い」、「浮橋」、「家に伝わる家具」、「なぐさめ」、「イラクサ」、「ポスト・アンド・ビーム」、「記憶に残っていること」、「クィーニー」、そして、「熊が山を越えてきた」の9作品。ビブリオバトルで紹介された「イラクサ」から始め、あとは掲載順に。途中で気づいた。掲載順に、読むべきだった。アンソロジーの掲載順が、対話の流れを作っているようだ。例えば、最後の「熊が山を越えてきた」。ほかの8作品の中に、色々な参照点が見つかる。対話を振り返りながら、アンソロジー全体に、複雑な余韻を残してくれた。

日頃、物語も、それなりには、読む。ただ、資料のようにして読むことが多い。社会的背景が気になる。いや、それが先行する。今回はそれがない。この本では、どの作品も、社会的背景が気にならなかった。読了後、そう思った。作品のせいだろうか。何だか、不思議な、読書体験だった。

(2019年3月12日脱 富田与)

 

書評 プレイバック・ビブリオバトル(4) 『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』

(1)

『十二世紀のアニメーション 国宝絵巻物に見る映画的・アニメ的なるもの』 高畑勲著 1999年 徳間書店

いつの学部教授会だったろうか。ビブリオバトルへの教員参加者の募集があった。手を挙げたのは3人。高田先生、永井先生、そして僕。2017年の第1回四日市市☆映画祭で、トークセッションをした仲間だ。セッションのテーマは、「映画のなかの女」。バトルでも、僕は、映画の本を紹介しようかな、と何気に考えていた。

3月末、古書店で、たまたま、この本を見つけた。読みたいと思いながら、そのままになっていた本だ。何年か前、「三鷹の森 ジブリ美術館」で、高畑の『一枚の絵から 外国編』(岩波書店)を買った。そのなかに出てくる。それも冒頭付近に。さっそく購入。読み始めた矢先、高畑の訃報。4月5日逝去。82歳。出身は伊勢市である。紹介するなら、これしかない。これに決めた。

俎上に上げられるのは、『信貴山縁起絵巻』、『伴大納言絵巻』、『彦火火出見尊絵巻』、そして『鳥獣人物戯画』の4巻。絵巻の写真の下に、絵解きが。それが如何にも、アニメ監督らしい。こんな具合だ。『信貴山縁起絵巻』「飛倉の巻」第2シークエンスの頭の一部、「霞のなかにロングショットの深山が姿をあらわすと、ズームインしつつオーヴァラップ、その奥にある(はず)の右面構図の住房を(見出す)」。撮影の指示を聞いているようで、鑑賞している、というよりは、撮影現場にいるような、不思議な臨場感がある。さばいている、といった感じか。

サクサクと、読み進められる本ではない。実際、時間がかかった。それには、もう一つの理由がある。この本、読書以外の、色々なことを僕にやらせてくれた。やらされた、と言うべきか。

 

(2)

まずは、図録と本を、読んだ。いや、読まされた。『阿弥陀様と極楽の世界』(四日市市立博物館)と『ヘンな日本美術史』(山口晃著)を見たり読んだり。最初の図録では、四日市市内にある曼荼羅がいくつか紹介されている。展覧会も面白かった。山口の本は面白い。次は、アニメだ。『かぐや姫の物語』。これは、あとでまた。今度は、絵解きを見たいと、『六道地獄絵』の絵解きが見られる刈萱山西光寺(長野市)へ。あいにく、時間があわず、見損ねたが、語り役の大黒さん(ご住職令夫人)に話が伺えた。さらに、名古屋市立博物館で、大正の絵巻物、桜井清香『米騒動絵巻』を見た。徳川美術館にも行った。バトルの前には、以前にも何度か見ているのだけれど、源氏物語絵巻の模写を見た。後で、特別展にあわせ、国宝源氏物語絵巻のいくつかを見た。

一冊の本をきっかけに、これだけ動くことは、めったにない。もちろん、ビブリオバトルを意識していなかった、と言えば嘘になる。とはいえ、帰省や展覧会など、いくつかの偶然が重なったこともあり、面白い時間だった。

さて、閑話休題。あとがきに、「私の夢は、このような部分拡大図中心の『あそびをせんとや―日本伝統絵画のなかの子どもたち―』といった大判画集を編むことである」とある。スタジオジブリのホームページを見た。どうやら、高畑は、この夢を叶えられなかったようだ、と思った、のだけれど、『かぐや姫の物語』を思い出した。ひょっとすると、高畑は、アニメの形で、夢を実現していたのかもしれない。

バトルからの帰りぎわ、視線が気になりますね、と高田先生。右から左に向かう、絵巻の流れを作っているのは、描かれた人物の視線ではないか。視線が、ストーリーになっていないか。なるほど、である。高畑の絵解きにも、視線の話は、見当たらなかった。美人画なんかを見るときには、以前から視線が、気になっていたのに。なぜ、気づかなかったのだろう。思わぬ、収穫のような、悔しいような。(2019年3月12日脱 富田与)

 

読書会で読んだ本(1)(2) 『国体論 菊と星条旗』(1)(2)

『国体論 菊と星条旗』 白井聡著 2018年 集英社新書

(1)

永井先生の呼びかけで、教員何人かが読書会を始めた。2018年8月28日、第1回読書会で、この本を読んだ。推薦者は、永井先生。店頭で、この本を見かけたとき、なんで、いまさら、国体なんだろう、と気にはなっていた。売れているという。

戦前の日本社会は、天皇を頂点とした国体という構造を持っていた。戦後、天皇制は残されたものの、憲法により、天皇の地位は象徴とされた。象徴天皇制である。ところが、戦後日本社会には、米国を頂点とした国体、とも言うべきものが形成され、それが、現在、日本の国家や社会を破たんに導きつつある。2016年の天皇の「お言葉」は、そうした流れに待ったをかけようとするものだった、と著者は考えているようだ。

読書会までに2回通読した。理由がある。国体の定義はどこだ。結局、明確な定義らしきものは、見つからなかった。一方、頷けそうなところも、少なくない。ただ、頷きそうになるたびに、同じ問いが。根拠は何だ。読書会でも、こうした点が話題となった。

読書会に、効能書きを作るとすれば、そのなかには、気になりながらも読まずにいた本に、読むきっかけを作ってくれる、という項目があってしかるべき。釈然としないまま読み進んだ本に、違う角度からの見方が加えられる、というのもある。さらに、思考の流れが発火する、というのも加えておきたい。 つづく。

 

(2)

この時には、三田先生が提起した、実証性への疑問で、僕の思考の流れは発火した。これは、しばしば経験することだが、研究会や読書会で、いったん思考の流れが発火してしまうと、それは、かなりの時間、後を引く。要は、しつこいということだ。

この時も、そうだった。翌日、名古屋美術館に出かけた。特別展「至上の印象派展 ビュールレ・コレクション」展が開催中。目的は、モネの「ウォータールー橋」。連作で、すでに幾つかは見ている。特別展で時間を取り過ぎ、下階の常設は、通り過ぎるだけの予定だった。「現代の美術:収集熱 ― 集めて、分類して、見せる」のコーナーで、足が止まった。河口龍夫「関係 ― 時のフロッタージュ」。化石のフロッタージュである。『国体論』は、日本のフロッタージュかもしれない。

フロッタージュは、化石のような石や、木など、比較的固い対象の上に紙を置き、その表面を鉛筆などでこすり、対象の凹凸を写し取る技法。色彩は失われる。ただ、表面の形状は、時に、実際以上にはっきりとする。対象が無ければ作れない以上、その対象とフロッタージュとは、一意対応している。実証性、例えば、対象の色彩の確認など、に固執さえしなければ、『国体論』は、確かに、日本のフロッタージュ、つまり、日本の襞だけを実際以上にはっきりと表現したもの、といえるかもしれない。

そう考えた時、思考の流れは、自分の専門に向かった。テロリズムと同じだ。国体にもテロリズムにも、明確な定義はない。何かを大捉えするのには都合がいい。どちらも、厳密な分析には不向きだが、イメージや概要を伝えるのには向いている。それゆえに、どちらも、取り扱い次第では、あぶない。結局、常設も、通り過ぎるだけでは、済まなかった。( 2019年3月23日脱 富田与)

 

 

書評 読書会で読んだ本(3)(4) 『この世界が消えたあとの科学文明の作り方』(1)(2)

『この世界が消えたあとの科学文明の作り方』 L.ダートネル著 東郷えりか訳 2018年 河出文庫

(1)

2019年3月19日、第2回目の読書会で読んだ本だ。推薦者は僕。この本を手にするきっかけになったのは、『人間が消えた世界』(アラン・ワイズマン)を読んだことだった。ワイズマンに至る系譜は、2つある。ひとつは、人類のグランド・ヒストリー。歴史一般に限った話ではない。経済史などでも、何万年、を単位とした歴史を描いた著作が相次いでいる。ワイズマンの直前には、『文明崩壊』(ジャレド・ダイアモンド)を読んでいた。もうひとつの系譜は、震災後、である。東日本大震災後には、マニュアルに近い著作のほかに、技術・文化・社会の在り方を巡る、ある種の文明論のような著作が、急増した。ワイズマンに繋がったのは、『「災後」の文明』(別冊アステイオン)だった。

科学文明が、大破局により崩壊した後、残されたモノや知識を使って、科学文明を再建するには、どうしたらいいのか。モノと技術、あるいは知識に、ほぼ特化した内容だ。身近なものか順に、食糧や衣服、鉄、薬、発電、輸送、コミュニケーション、さらには地図など、現在、あたりまえのようにあるモノを巡る、科学と技術。科学史や技術史を背景に、そうした現在の科学と技術を再生したらいいのか。理科の教科書にもある、日時計や食塩水の電気分解など、すぐにでも、試してみたくなる話題も多い。

文化や社会の話は、ほとんど出てこない。読書会でも、この点が話題となった。もうひとつは、スケール感。時間的にも、空間的にも、もうひとつ捉えどころがない。どちらも、文明、というタイトルにある言葉との違和感かもしれない。つづく。

 

(2)

今回は、高田先生の問題提起が、僕の思考の流れを発火させた。これをSFにするとしたら、どんな話になるのかしら。読書会の前、僕はこの本を読みながら、なんとなく、『風の谷のナウシカ』を思い出していた。

一見、かなり自由な設定ができそうだが、案外難しい。舞台は、どこか。国か、街か、あるいは何かの小集団か。登場人物は何人。スケール感の問題だ。登場人物の属性は。例えば、言葉は通じるのか、敵対関係はあるのか、などなど。第一、なぜ文明が崩壊したのか、ナウシカならば「火の七日間」だが。核戦争、メテオの衝突、気候変動などなど、どれも、設定としては、ありそうな話ではあるが、科学文明が再生できるような話としては、馴染みにくそうな気もする。

今回も、思考の流れは、読書会後にまで続いた。翌々日の、春分の日、久しぶりに、いなべ市農業公園に出かけた。ちょうど見頃になった梅林を歩きながら、続きを考えた。SFに描かれる状況は、ユートピアか、デストピアか。そもそも、科学の進歩は、人を幸せにはしないかもしれない。仮に、崩壊することなく科学文明が続いたとしても、そこにあるのは、ユートピアか、デストピアか。むしろ、科学文明の崩壊が、科学文明によるデストピアをも崩し、まったく別のユートピアを作ることだって、ありうるだろう。

この本には、科学文明を再生していくヒトが、登場しない。確かに、ヒトは、登場させにくいだろう。ヒトを登場させ、文化や社会を考えてしまうと、使えるモノや技術は、かなりの制約を受けるに違いない。本の内容全体をSFに仕立てにくいのとは、逆に、SFのようなストーリーがないからこそ、多様な、科学や技術を、取り上げることができているのかもしれない。( 2019年3月23日脱 富田与)

 

書評 コンビニ2題(1)『コンビニ外国人』  四日市大学の卒業生登場

コンビニで働く外国人を中心に、日本で働く外国人を幅広く取材したルポルタージュ。出版されたのは昨年5月。後期に開講する「グローバル・コミュニケーション」で、ダイクス先生がテキストに選んでいる。面白い本だ、とダイクス先生から伺っていた。気にはなっていた。改正入管法の施行に合わせて、ようやく読んだ。

驚いた。一緒にいろいろやった、四日市大学の卒業生が登場する。ブイ・タン・タム君。経済学部の国際地域コースを卒業した後、兄で、やはり四日市大学の卒業生でもあるブイ・タン・ユイ君と一緒に、高田馬場でバインミーの店を立ち上げた起業家だ。鶴田ゼミにいた。昨年のヴェトナムフェアにも来てくれた。コンビニでのアルバイト経験を活かしながら、日本で起業した留学生として紹介されている。四日市にも店を出したい。以前からの夢を、この本でも繰り返している。早く来い。

取材は1年に及んだという。内容は多岐にわたる。ヴェトナムでの取材も取り上げられている。日本人にとっても、留学生にとっても、うわさや思い込みで、ステレオタイプ化しがちなテーマだけに、日頃、留学生と接することの多い僕にとっても、発見が多かった。特に、色々な所で触れられている新宿区の話は、不勉強を痛感させられた。変化は速い。

読みながら、心配になった。いつまで、日本は、留学先でいられるのだろう。ここ数年、外国メディアでの日本経済の扱いは、大きく後退している。かつて、国際経済が取り上げられると、米国の次には、日本の話題があった。いまは、日本の名前すら出てこないことも多い。留学生や研修生を受け入れる経済大国日本。そんな自己イメージが、いろいろな所から、いまだに聞こえてくる。違和感がある。この本でも、最後のところで触れられている。人の流れが日本に向いているうちに、手を打たなければ。内なる国際化が問われている。( 2019年4月10日脱 富田与)

 

書評 コンビニ2題(2)『コンビニ人間』

第155回芥川賞受賞作品。初めて読んだのは今年初め。店頭で、ペラペラとページをめくりながら、音や色の表現が気になった。自分の感覚器が、まるで、センサーのように機能しているようだ。感覚器を通じて侵入してくる外部刺激への反応も、アルゴリズムを辿っているような感じがした。

初めての絵画を見る時と同じで、最初の読後感は、作家の意図や文学史、思潮とは、おおよそかけ離れていることが多い。この時も、作家や作品の背景は、何も知らずに読んだ。いや、芥川賞を受賞していることだけは知っていたけれど。読了後、カミュの『異邦人』に似ている、と思った。連想は、やはりカミュの『シーシュポスの神話』に繋がった。実存主義、と位置づけられることの多い作家である。村田とカミュの間に何か関係があるのか、あるいは、実存主義につながる思潮が流れているのか、いまだ、確かめてはいない。

日常の断片的な感情や感覚に、何か意味ありげな、かわいそう、だとか、愛、だとか、あるいは、成長、だとかの名前を付けて、頷き合うのではなく、ただ断片だけがそのまま浮遊している。時にそれは、まるで他人事のように自分から乖離して存在し、時にそれは、同じ場所での無間地獄の観を帯びる。ただ、それはあくまでも日常で、意味ありげな名前を付けるまでもない。あえて、言葉にするとするならば、『コンビニ人間』が、僕に『異邦人』を思い出せた理由は、この本から出てきた、やはり実存といえるのであろう、こんな理解からだろう。

しばらく忘れていたのだけれど、『コンビニ外国人』を読んで、思い出した。読み返してみた。『コンビニ人間』が描くどこか無機的な状況と、『コンビニ外国人』が伝える状況との間には、段差のようなものを感じる。ルポルタージュと小説という違いは、もちろんある。ただ、それだけか。週に何回かはコンビニに立ち寄る。そこには、また、小説やルポルタージュとは違った、コンビニがあるような気がする。( 2019年4月12日脱 富田与)

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