展評 6月1日 四日市駅前 「かわいい?たのしい!萬古展」 「星をみつめるどうぶつたち はしもとみおの世界展」 

  • 2019/6/3

 

「かわいい?たのしい!萬古展」

もはや常連なのだろうか。入り口の受付で、見知った担当の方が、いつもありがとうございます、と丁寧に頭を下げてくれた。奥にいた先客が、ちらっとこっちを見た。いささか気恥ずかしい。

「かわいい?たのしい!萬古展」。四日市市文化会館常設展示室。明治期から多くなった輸出用陶器の展覧会だ。意匠の往復運動のようなものを感じた。これは萬古焼に限らず、この時期の輸出用陶磁器を見るたびに気になっているのだけれど、欧州のジャポニズムと日本の欧化の間では、互いの文化、例えば意匠が、それぞれに模倣され、それと気づかれないままに往復運動をしていたのではなかろうか。

今回の展示でも、アールヌーボーのガラス器のようなボタニカルな意匠があったり、骸骨の意匠があったりする。あくまでディレッタントの感想だが、どちらも、日本、欧州双方にあるモティーフではあるものの、例えば、ボタニカルな意匠についてアールヌーボーの説明ではジャポニズムが引き合いに出されたものもあり、今回のそれは西洋趣味と解されているようだ。骸骨についても、欧州では中世以来のメメント・モリ(死を忘れるな)の流れがあり、この時期あるいはその直前の日本には北斎や暁斎がいた。北斎、暁斎の欧州への影響は、色々な図録で紹介されている。

そんなことを考えながら作品を見ていると、また、吹き出してしまった。茶釜の形をした土瓶である。注口をこちらに向けている。これが口。上手の取り付け部分の釘を模した飾りが目、胴の肩の辺りにある左右の取手が耳。狸である。ぶんぶく茶釜か。それらしい解説も見当たらなかった。いや、見落としていただけかもしれないけれど。美術館に出かけるときは、独りのことが多い。ただ、こんな時には、誰かがいてくれたらと思う。作品を見て感じたことが、自分だけがそう思うのか、あるいは、他にもそう思う誰かがいるのか、確かめたくなる。今回は、入り口で声をかけてくれた受付の方に話しかけてみた。担当の学芸員を呼びますか、とその方。それには及ばないので、お話だけ聞かせてください、と僕。そんな話は聞いたことはないようなきがするけれど、確かに、そんな風にも見えますね。ちょっとだけホッとした。また、お手間をとらせてしまった。面倒くさい常連である。(A.T.)

 

「星をみつめるどうぶつたち はしもとみおの世界展」

(1)

去年、ヤマザキマザック美術館であった「木彫りどうぶつ美術館」展は見逃してしまった。今回もなかなか時間が取れず、結局、最終日直前になった。四日市市立博物館「星をみつめるどうぶつたち はしもとみおの世界展」。

フライヤーで見た写真の木彫の肌理が気になっていた。全体に荒々しさを感じたり、ざらざらとした感触が感じられたりした。長野の山のなかで育った僕にとって、木は色々な意味でなじみ深い。切り出された木は、薪や杭となったり、稲を干すときに組む、小ぶりの合掌式の屋根のような「ハゼ」の柱となったり、鋸やチェンソー、斧や鉈でいろいろに加工して使われる。加工するときの、音、香り、そして道具が動くたびに飛び散り体中に当たる、いささか不快感のある木端の感触。はしもと作品の写真を見ていて、久しぶりに、そんな懐かしい感覚が蘇ってきた。

いなべ市にアトリエを構えている。阪神淡路大震災で被災し、その時に、馴染みのあったどうぶつ達が身の回りからいなくなってしまった経験が、どうぶつの木彫に繋がっているという。「生きていた大切な命をずっと残しておきたい」と展覧会のフライヤーにはある。最近になり写真撮影ができる展覧会が増えた。今回は、撮影だけではなく、木彫作品には触ることもできた。はしもと作品を通して残されるのは、どうぶつ達の形だけではなく、感触や、パネルにある作家の表現に従うならば、作家が抱いたそのどうぶつへの思いもあるようだ。

展示作品を順に辿っていくと、視覚だけを考えれば、3次元のいきものをいったん2次元の絵画に写し、そこから更に3次元の木彫が構成されているようだ。展示された絵画を見て、なるほど、と思った。どうぶつ達の体毛は、しばしば、体の輪郭をツンツンとはみ出して描かれている。輪郭の内側にある体毛は、その一本いっぽんが描かれているわけではなく、それが体毛であり、どんな感触なのかが分かる程度の細かさで描かれているようだ。とはいえ、かなり細かい。木彫を見ると、概して彫が深く、彫った跡が線状に残されているのは、いや、きっとそうなるように彫られているのは、そんな絵画と呼応しているのだろう。写真で見た荒々しや肌理のざらざら感は、木彫のそれが、もう一度、2次元の写真に写し取られたことから来るのかもしれない。(A.T.)

 

(2)

今回の展示では、視覚のほかに触覚と微妙に臭覚が加わる。臭覚が受容するのは、明らかにどうぶつのそれではなく、木そのものの香りだったり展覧会で鑑賞者が触ったときのうつり香だったりするのだろう。触覚の方はどうだろう。

実際に作品を触ってみて、かなり迷った。これは、いきものの皮膚や毛の感触を木の肌理に脱構築、この場合には別の素材でオリジナルの感触を再構成、したものなのか。指先で、一本いっぽんの毛のように感じられる凸凹は、きっと、これ以上細かく、あるいは間隔を狭くしてしまったら、そのようには感じられないのではないか。深い彫の谷の底は、きっと体躯の形状、尾根の部分は体毛なのだろう。そうすると、まてよ、これらの作品は、初めから触覚での鑑賞を考えて作られたものなのか。

何年か前に、三重県立美術館でフリオ・ゴンザレス展を見たときや、愛知県立美術館でピカソ展を見たときにも考えたのだけれど、作家は作品の経年劣化や疵の発生をどの程度意識して制作しているのだろうか。展示されていたゴンザレスはブロンズでの鋳造が多かったけれど、オリジナルは酸化しやすい鉄を使っている。ピカソでは青の時代の作品に劣化やキズが多かったように思う。

はしもとのこの展覧会のように作品に触れることができるとなると、通常の経年劣化より変質は速く、疵もつきやすいだろう。作品を通して鑑賞者に伝わるものも、次第に変わっていくことになる。さて、展示されたときの作品が完成品なのか、あるいは展示はそもそも制作過程の一部で、展示が終わるたびに新しい完成作品ができていくのか。いや、ひょっとすると、どうぶつ達もいつかはその生命を終えるように、それを写し取った木彫作品もいつかは朽ちていくということか。とりとめのない思考の流れが、また、発火した。

いったん発火した思考の流れはしばらく続いた。最後の「クドリャフカ」のインスタレーションは、ただただ見入った。人工衛星に乗せられて宇宙に行ったままになっている犬の話だ。久しぶりに日常生活のなかでキリル文字に遭遇したのもうれしかった。2時間ほど続いた思考の流れにようやく休符が入った。出口近くの制作過程を撮影した映像では、木を加工するときの音や香り、木端の感触が、また、蘇ってきた。(A.T.)

 

 

 

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