書評 80年代 5題 『美術手帳 2019年6月号 80年代☆日本のアート』 『80’s エイティーズ』 『1980年代』 『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』 『図録 TOKYO 見えない都市を見せる』

  • 2019/6/11

 

(1)『美術手帳 2019年6月号 80年代☆日本のアート』

『美術手帳 2019年6月号 80年代☆日本のアート』 美術出版社

1980年代。コンテンポラリー・アートが身近になった。同時に、何をアートと呼ぶのかがよくわからなくなった10年でもある。これは、おそらく、僕だけではないだろう。この特集は、そんな10年を振り返りながら、近年注目されることが多くなった80年代日本アートを紹介している。

自分で展覧会を選び、出かけるようになったのは、中学、高校の頃だ。美術館や博物館、あるいはデパートの催事場に行かなければ、そうしたものが見られなかったからだ。ただ、わざわざ見に出かけたのは、絵画や彫刻や焼き物で、アートではなかった。少なくとも、そうは呼ばなかった。

アートがにわかに身近になったのは、つくばに住むようになってから。リマに居た時期を除き、大学時代と大学院時代はここで過ごした。まわりに似たような関心を持つ教員や学生、院生が多かっただけではなく、東京からもさほど遠くはないし、85年の科学博に向けてアートがらみの色々なものが動いていた。磯崎新のつくばセンタービルができた頃の話だ。そんなローカルな事情のほかにも、ニューアカ(ニューアカデミズム)、ポモ(ポスト・モダン)などの思潮、意味合いは色々だけれど広く芸術一般で言われたニューウェイブ、コピーなどの広告、セゾン文化、キャンパスでもときどき見かけたDCブランドなどなど、どれもが何故かアートにつながっていた。

この特集を読みながら、80年代の出来事、現象とアートを繋ぐチャートのようなものを思い描いた。どんな人が編集に携わっているのかは承知していないが、あの頃の雑誌でしばしば見かけたチャート式の雰囲気が紙面からも伺えた。読了後、まず感じたのは、バブル経済の話はほとんどなかったな、ということだ。80年代前半の話が多く、分野も美術なのだから、当然と言えば当然なのかもしれないが、30年という長さで文化的な流れを考えた時には、バブルは、夾雑物以上のものではないのかもしれない、とも思えた。(A.T.)

 

 

(2)『80’s エイティーズ』

『80’s エイティーズ』 橘玲著 太田出版 2018年

80年代は雑誌の時代だったような気がする。大学時代には、ブックバンドにテキストやノートの他に、『朝日ジャーナル』や『現代思想』、あるいは『宝島』や『ポパイ』を挟んでいる友人が少なくなかった。女の子たちも、『アンアン』や『ノンノ』、あるいは日本での出版が始まったばかりの『エル』や『マリクレール』を誰かが持っていた。確か、『エル』あたりには、つくばセンタービルの広場で撮影された写真が時々使われていたと思う。思想、世相あるいはファッションで、雑誌からの情報には過敏な時代だったのかもしれない。

この本の著者、橘玲は、『宝島』の編集長だった。この本には色々な仕掛けがあって面白い。タイトルは80’sだが、実際の中身は1978年から1995年までがメインで、その後に2008年までの短い後日談が付けられている。さらに、エピローグも付いているけれど。基本的には、1978年に大学に入学してから編集長としてオウム事件の取材に関わった1995年までの橘の自伝のようだが、80年代論としても読める。

描かれている時期と80年代とのずれが、かえって、この10年間の日本を際立たせているような気がする。エズラ・ボーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバー・ワン』が出版されたのが1979年。88年頃に始まったとされるバブル経済は、92年頃まで続いた。その後、紙媒体のメディアが苦戦するインターネットの一般への普及は95年頃から。80年代は、こうした出来事の間に挟まれていた。編集者を経て、作家になってからは、お金に関わる著作の多い橘ならではの時代設定だ。いや、橘本人が時代を設定して自伝が書けるわけはないので、実際にはその時代のなかで橘が生きてきた、ということなのだろうけれど。

時代の文化状況と経済状況が面白く編みこまれた自伝のなかに、ほぼ同時代を経験した読み手としては、僕自身の自分史までも、点々と編みこんでしまう。年代ごとに区切られた各セクションのタイトルには、その頃にはやっていた歌の曲名が付けられている。そうした曲やPVが思い出されるせいもあるのだろう。(A.T.)

 

 

(3)『1980年代』

『1980年代』 斎藤美奈子、成田龍一編著 河出ブックス 2016年

チャート、カタログ、マニュアル、いずれも80年代頃から雑誌などでしばしば目にするようになった言葉たちだ。チャートは、おそらく学習参考書から来ているのだろう。誰にでもわかる、誰にでも使える、といった大衆化の流れと軌を一にしているようだ。実際、文化、ファッション、そして大学の大衆化が、しばしば論壇でも取り上げられていた。

この本を読みながら、本のなかにも出てくるせいもあり、そんな言葉たちを思い出した。この本自体が、さしずめ、チャートやカタログの要素を取り込んだ、80年代の百科全書のような作りになっている。とにかく、話題が多い。書き手も多い。目次があれば調べものにも使えそうだが、想像するに、項目数が大変なことになりそうだ。かえって使い勝手のいいマニュアルにはならないかもしれない。

カタログよろしく分野は多岐にわたり、文学、思想、政治、歴史、ジェンダー、ファッション、グルメなどなど。ただ、2人の編者から想像できたことではあるけれど、やはり、文学の話題が多い。取り上げられる話題の多くは、文学の幹から枝分かれしながら触れられるか、触れられた話題が次第に文学の幹につながっていく。そんなチャートの役割を果たしているのが、各セクションの初めに置かれた編者2人と各領域に造詣のある識者との鼎談だ。

なかでも圧巻は、最後の高橋源一郎を交えた鼎談で、雑誌から再録した他の鼎談とは違い、この本のための録りおろしだけのことはある。取り上げられている作品は、僕自身も高校から大学にかけて読んだものが多い。僕は、単純に発行された順番に読んでいたような気がするけれど、こうして、あらためてチャートにしてもらうと、なるほど、と思う。読了後、田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を読み直してみたくなった。初読の時から、少し毛嫌いしていたのだけれど。(A.T.)

 

 

(4)『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』

『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』 宮沢章夫著 河出書房新社 2015年

入学式からGW頃まで続く長い新入生歓迎シーズンや、前夜祭から後夜祭明けまで4日ほど続く大学祭、あるいは大学の宿舎祭(「やどかり祭」と言った)シーズンには、普段どこで演じているのか分からないいくつもの学生劇団が、いくつもの芝居を打った。紅のテントはなかったと思うけど。確かに、宿舎の売店や銭湯が集中する生活センター前の広場では、普段から、あ・え・い・う・え・お・あ・お、は聞こえていた。演劇や劇場、演劇性やドラマツルギーなどの言葉や概念が、演劇とは直接関係のない文化人類学、哲学、政治学などの講義や著作に頻出した。演劇も80年代シーンのひとつには違いない。実際、別役実、野田秀樹、平田オリザの発言や文章も、影響力があった。

宮沢も演劇人だ。ただ、この講義では、演劇そのものの話はむしろ抑えられている。大きな見取り図は、ピテカントロプス・エレクトス(通称「ピテカン」)とその周辺の(宮沢も概念規定をあきらめてしまったように見える)「かっこいい」人々や文化、それと比べて見劣りしたり時には軽蔑されたりした「おたく」やその文化、これら2つの相いれない関係。ピテカンは1982年に原宿にできて3年ほどでつぶれた日本で初めての(今流の)クラブで、坂本龍一や大貫妙子や浅田彰みたいな「かっこいい」文化人が集った(宮沢に言わせると)「鹿鳴館」。「おたく」は(今流の)オタクとは違い、クールジャパンの一部のようにして受け入れられる前の、(今流じゃない)コミケに集まった根暗(「ねくら」と読む)な集団。読み始めは、二項対立かとも思ったのだけれど、読み進めるうちに、どうやらそんな単純な話ではない。

この講義がすごいのは、本当にわずかな空間と時間の中とその周辺に、80年代の日本の文化シーンを集約させて語ってしまっている点だ。80年代という特異な時代性と、宮沢の経験と力量故に出来た、こう言ってよければ力技のような気がする。ただ、あまり無理は感じないし、講義中の聴講者とのやり取りもオープンで、宮沢の応対や議論を発展させる姿勢もしなやかだ。80年代に流行った演劇論とは別の、演劇のあり方(?)を講義の中で演じてくれているようにも読めた。(A.T.)

 

 

 

(5)『図録 TOKYO 見えない都市を見せる』

『図録 TOKYO 見えない都市を見せる』東京都現代美術館企画編集 青幻社 2015年

80年代の文化や世相が東京発であったことは間違いない。『東京大学「80年代地下文化論」講義 決定版』で宮沢がピテカンを鹿鳴館に準えたように、そうした文化や世相が発信されたのは、東京の中でも、ごく限られたところからだったようだ。その意味では、日本のポスト・モダンの始まりは、モダンの始まりに似ていたのかもしれない。

この本は、2015年から2016年にかけて東京都現代美術館で開催された同名の展覧会の図録である。開催時期の関係かもしれないが、『美術手帳 2019年6月号 80年代☆日本のアート』のEditor’s Noteで紹介されている主な展覧会のなかに、この名前はない。確かに80年代をフォーカスしたものではないようだけれど、帯には「80年代東京カルチャーの命脈を引き継ぎ、現代へと接続する」とある。

この展覧会は、各界のクリエーターによる6つのキュレーションと、東京をテーマとした作家による4つの新作から構成された。このうち、キュレーションの最初の2つでは、間違いなく80年代が参照点とされている。ひとつ目はYMOと宮沢章夫による「文化事象としてのYMO」、そしてふたつ目は蜷川実花による「自己演出の舞台装置」。

確かに、YMOあるいは彼らのテクノポップは80年代のある部分を集約していた。テクノという言葉で表現された、どこか無機質で記号的な、未来感のある現実離れした、他の誰かがやるとダサいだけかもしれないファッションやヘアスタイルが、何故かかっこよかった。音楽は流行り始めたばかりのウォークマンにはまっていた。スタイルはニューウェイブのアートや広告にマッチしていた。蜷川が図録の中でも言っているように、最初に注目された「自己演出の舞台装置」は原宿のホコテン(歩行者天国)だろう。ちょうど1980年前後のこと。敷居の高いピテカンが隣接していたことを考えると、何とも皮肉な話ではあるけれど、ホコテンでは、見る者と見られる者の境界が薄かった。バブルの頃のディスコもそんな感じだった。ただ、ディスコ発の何かが残っているだろうか。

インターネット以前の時代、その最後の時期が80年代だけれども、その頃の文化や世相とされる物事たちは、いったいどの程度、東京あるいはその周辺から出て行けていたのだろうか。YMOの記号たちはインターネット以前のメディアでも大衆消費社会のなかで広がったかもしれない。ただ、蜷川の言う「自己演出の舞台装置」は、影響力のあるような形で、地方にまでどの程度届いていたのだろう。消費されるものは広がりやすけれど、クリエートする舞台は広がりにくい。ポスト・インターネットの今でもあまり変わっていないような気がする。この図録を見ながら、あらためて、そんなことを考えた。(A. T.)

 

 

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