書評 多言語 3題 『バイリンガル・エキサイトメント』、『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』、『エクソフォニー』

  • 2019/8/1

(1)『バイリンガル・エキサイトメント』

『バイリンガル・エキサイトメント』リービ英雄著 岩波書店 2019年

雑誌の書評欄でこのタイトルを見かけた。カタカナ書きされた英語を黙読する時、口と耳によみがえる音は、日本語の音になる場合と英語の音になる場合とがある。あまりなじみのない語句の並びだと、もし未知の単語が含まれてさえいなければ、英語の音になることが多い。このタイトルは、英語の音で口と耳に残った。頭には、もうひとつのものが残った。どういう意味だ。

リービ英雄の言語経験は、プロフィールにある履歴以上に、かなり複雑なようだ。カリフォルニアで生まれ、台湾、香港で少年時代を過ごし、米国での大学教員を経て、日本で日本語の小説家となっている。万葉集の英訳者としても知られる。中国各地、日本各地、そして中国の各時代、日本の各時代での言語経験がこのアンソロジーでも触れられている。

あとがき、にこうある。「とにかく母から学んだ以外の、もう一つの言語に身をさらされながら、あるいは身をさらしたという経験のうえで文学を書くときに、そんなエキサイトメントが生じるし、表現の歴史の中からもそんな感情がたびたび伝わる」。大学と同人誌とを同時に卒業してから、幸い、「文学を書く」ことを考えたことは僕にはない。とはいえ、国際関係、細かい話をしだすと面倒くさいのでこう言っておくが、という専門柄、似たような経験は避けがたくある。僕がいままでに書いた文章は、それほど多くはないけれど、そのほとんどは研究論文や時評といった分類に入るのだろう。おそらくは、文学とは違ったやり方で、ある種の「表現」をしている、つもりではいる。

リービ英雄は言う。「コミュニケーションと『表現』は違う。もちろん『表現』も相手に伝わらなくてはいけないという意味ではコミュニケーションの一つだが、形式的なやりとりではなくて、これまでコミュニケートしたことのないことを伝えるのが『表現』である。相手が考えたこともなく、感じたこともないことを、考えさせたり、感じさせるのは大変なことだから嫌われることも多い。しかしそのようにして新しい世界の把握の仕方を言葉にするのが文学なのである」。やはり、僕がやろうとしてきたことも、それが成功していたか否かはひとまず措くとして、「表現」と言ってよさそうだ。「考えさせる」ことはいつも気にしている。文学との大きな違いといえば、「感じさせる」ことは、ほとんど気にはしていないということだろう。

学期末のこの時期、学内ですれ違う留学生からは、国際関係論のレポート大変です、と声をかけられることが多い。彼ら彼女らも、文学とはかなり違った、バイリンガル・エキサイトメントを感じているのかもしれない。(A.T.)

(2)『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』

『特急二十世紀の夜と、いくつかの小さなブレークスルー』 カズオ・イシグロ著(土屋雄訳) 早川書房 2018年

NHKドラマ、いや日曜美術館の方が先か、をきっかけに『浮世の画家』を読んでから気になっていることがあった。やっぱり順番が違う。日曜美術館、小説、そしてドラマが正しい。ドラマを見て思った。小説に忠実だ。そのまんま、と言ってもいい。日曜美術館が紹介していた、ドラマのために作成された絵画たちも、小説に描かれドラマで表現された場面に、はまっていた。ここしばらく、映画やドラマと、その原作との食い違いにあんぐりと口を開けてしまうことが多かったせいもあるのだろう。原作に忠実なドラマがかえって新鮮だった。

そんな時、『バイリンガル・エキサイトメント』の中に、回数は少ないのだけれど、イシグロの名前が登場してきた。イシグロの何か小説以外の作品を読んでみることを思いついた。書店をぶらつきながら、この本を見つけた。イシグロらしからぬ、こうってよければ村上春樹のような、癖のあるタイトルが気になり手に取った。2017年ノーベル文学賞受賞記念講演を、左頁にオリジナルの英文で、右頁にその対訳を並べて収めた本だ。

気になっていたことが一気に解決した。「もし、語り手の思考の流れや記憶の漂流に従って話を展開していけるなら、ちょうど抽象画家がキャンバスの上に形や色を配置していくように文章を書けるのではないか。2日前の出来事を20年前の出来事のすぐ隣に置き、両者の関係に注意を向けるよう読者を促すこともできるのではないか。そういう書き方なら、人が自らや自らの過去を理解しようとするとき、その理解を十重二十重に覆って曇らせている自己欺瞞や否認の存在を暗に示せるのではないか」。特定の作品に触れたものではないのだけれど、『浮世の画家』の在りようとぴったりと重なっている。もしかすると、イシグロ自身の「日本」の在り方とも重なっているのかもしれない。イシグロは、日本からはなれたまま、日本や子供時代の記憶とその忘却の網の目のなかで、日本から来る書籍などを手掛かりに自分のなかで「日本」を作り上げてきたという。その「日本」を何かの形で作品に取り込むとすれば、イシグロ自身を語り手とした「抽象画」ができるような気がする。

「私にはこう感じられるのですが、おわかりいただけるでしょうか? あなたも同じように感じておられるでしょうか?」。作品を通してイシグロから発せられる読者へのこの問いかけは、芸術祭などで、実際にその作品を見た僕に、その場に居合わせた作家から時々発せられる問いかけに似ている。イシグロは音楽からインスピレーションを受けることも多いと書いている。「抽象画」も単なる比喩ではないのかもしれない。この本を読み終わって、イシグロは言語をも越えてさまざまな媒体からコトバを感じる、そんな「バイリンガル」なのかもしれない、とも思えてきた。(A.T.)

(3)『エクソフォニー』

『エクソフォニー』 多和田葉子著 岩波現代文庫 2012年

 『バイリンガル・エキサイトメント』と出会うしばらく前、『献灯使』と『犬婿入り』とを立て続けに読んでいた。白状してしまうと、どちらの作品も初読ではどこか落ち着かないものが残った。『献灯使』では、おそらく3・11後という時代背景があるのだろうと推測しながらも、まず思い出したのはオーウェルの『1984』だった。ところがBig Brotherのような権力者の姿は出てこない。言葉だけが登場人物たちを動かしているように見えた。言葉に動かされる人間たち。『犬婿入り』では、断続的に投げ込まれる、やたらと長い文、にまず引っかかった。黙読する時の読み易さを初めから拒絶しているかに見えた、やたらと長い文、も、一文字一文字を音に置き換えながら読むとそうでもない。音読してみた。すんなり読める。言文一致のだまし絵。

書店で『バイリンガル・エキサイトメント』を見つけた時、その帯には多和田葉子の名前があった。目次を見るとリービ英雄との対談もある。ページを繰ると、つまり立ち読みすると、『エクソフォニー』への言及がとにかく目立つ。そのまま『エクソフォニー』を探した。見つからなかった。その日は、『バイリンガル・エキサイトメント』と他2冊だけ。他の日、他の本屋で、『エクソフォニー』を見つけた。意外に薄い。『バイリンガル・エキサイトメント』を読みながら、それなりに大部の本を想像していた。リービ英雄が「解説」を書いている。

エクソフォニー、「母語の外に出た状態」というのが一般的な意味だという。母語以外の言語で書く、というのが多和田の主な関心のようだ。母語の外へ出る旅、と副題にあるように、旅行記には違いない。さりながら旅行そのものの話は決して多くはなく、それぞれの土地で見つけた、あるいはその土地と結びつけた、言語と人との関係の発見であったり、言葉の使われ方、といっても表現や発話の話に限らず、どんなところでどんな言葉が出現しているかとでも言ったらいいのか、記号や信号のようなものまで含めた、だったり、言葉の並べ方の発見であったりする。

この本の内容を短文にまとめるのは至難の業だ。リービ英雄でさえ、読むたびに発見がある、と書いているのだから無理もない。ただ、『献灯使』と『犬婿入り』を読んでからどこか落ち着かないままだった僕にとっては、有難い処方箋であった。旧植民地での宗主国の言語の在り方、あるいはソウルの話に登場する外来語の多用、確かに人間たちは言語に動かされている。『献灯使』の主人公は、コトバなのかもしれない。ベルリンの話で紹介されている19世紀ドイツの作家クライストと森鴎外によるその和訳。副文(複文のことか?)が多いクライストの表現を、読み易く訳出してしまった鴎外に多和田は少し苦言を。副文の持つ表現の可能性を削いでしまった、といった感じか。『犬婿入り』の、やたらと長い文、は、やはり、言文一致のだまし絵、だったのかもしれない。(A.T.)

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