時事雑感  8月15日

  • 2019/8/25

(1)

今年の8月15日は松代大本営で迎えた。大本営、という言い方はあまり正確ではない。1945年8月15日にはまだ完成しておらず、建設途中だった、といった説明が必要な場所だ。実際、計画されたような形で使われることはなかった。

松代には、大本営あるいは大本営跡などと呼ばれる、地下壕あるいはその痕跡が3か所ある。皆神山地下壕、舞鶴山地下壕、そして象山地下壕である。この日に聞いたボランティアガイドの方の説明によると、はっきりとした地下壕として確認できるのは、象山と舞鶴山の2か所だけのようである。皆神山地下壕は地盤の脆弱さなどから掘削は途中で断念された。皆神山は、後に、松代群発地震の震源の多くが集中していたことや、さらに後には「日本のピラミッド(?)」としてもそれなりに知られるようになった。舞鶴山地下壕には、現在、チリ地震の発生をいち早く観測したことなどで知られる地震観測用の施設が置かれている。ここには天皇御座所や地下宮殿が設置される予定だった。そして象山地下壕。今回は象山地下壕だけを訪ねた。ここには、日本政府、日本放送協会などが移転してくるはずだった。

松代出身の僕には3つの山とも馴染みのある場所だ。特に、舞鶴山と象山は拙宅にごく近い。舞鶴山の方は、小さな頃、その頃の僕は松代群発地震のおかげで地学に興味を持っており、年に一度行われた地震観測所の公開が楽しみだった。ひずみ地震計の近くまで地下道で行けたり、普段は見ることができなかった観測機器を間近で見られたり、小使い程度の価格で地下調査のボーリングの時に出てくる筒状の岩のサンプルが買えたり。その頃、象山の地下壕入口の方は、それとは分かるのだけれど木材や岩で塞がりかけていた。周辺は、ズリ、と呼ばれ、夏休みの時などには、学校からは、行ってはいけない危険な場所だと注意された。これは後で知ったのだけれど、ズリ、というのは発破をかけた時などに大量に出てくる岩石屑のことだという。確かに、地表にもガラガラとした小石が多かった。

松代の拙宅から、徒歩で2500歩程度の距離にもかかわらず、象山地下壕にはしばらく行っていなかった。この象山地下壕は、その後、見学コースが整備され、ボランティアガイドの方の案内が付くようになったり、安全への配慮もなされるようになったりした。この時期には見学者も多いようだ。にもかかわらず、いや、むしろそれ故なのかもしれないのだが、この象山地下壕は、小さな頃から聞いた色々な話や小学校や中学校で教えられた色々なことが、僕の中ではまだ整理の付いていない「歴史」として、そのまま圧し掛かってくるようで、僕には珍しく、訪ねることに少し躊躇される場所のひとつとなっている。

今回は家族に誘われ、前日には無言館を訪ねられなかった心残りもあり、出かけることにした。(A.T.)

 (2)

『悲しみの砦』。児童文学者の和田登が、長野で発行されている少年少女雑誌『とうげの旗』に連載していたものを、1977年7月に単行本にした作品である。「あとがき」には起筆は1973年とある。1977年11月の第二刷が僕の手許にはある。表題の「悲しみの砦」とは松代大本営のことである。どういう経緯でこの本を買ったのかはよく覚えていないのだけれど、大学時代であることはほぼ間違いない。生まれてから松代に住み続けていた僕が、それまで聞いてきた話や小学校や中学校で教えられたことから少し離れた「歴史」として松代大本営を見ることができるようになったのは大学に入ってからのことだ。おそらく、その頃に買ったのだろう。

この「プロローグ」の中で姪の夕子に大本営建設に朝鮮半島から連れてこられた労働者の話しをしたあとで和田はこう言っている。「悲しいことに、おじさんも、夕子のおとうさんも、おかあさんも、学校の先生も、そしておまえ、夕子までもこの国に生まれた、そういう過去をもつ“日本人”のひとりなんだよ。これだけは、どうべんかいしても、どうにもならない事実なんだ」。松代大本営が、僕にとって、訪ねるのに少し躊躇する場所である理由は、おそらく、この事なのだろう。

小さな頃から聞いてきた話や松代の話が、日本人の話として語られてしまったり、反対に、日本人の話が、小さな頃から聞いてきた話や松代の話と重ねられてしまったりする。なかなかうまく説明はできないのだけれど、今でも違和感がある。小学校や中学校では、日本の出来事である以前に、松代の出来事として大本営建設の話を聞かされてきた。日本人のひとり、ではなく、松代で生まれた人間のひとりとして、「歴史」の話を聞いてきたと言ってもいい。戦争そのものの「歴史」は、高校生や大学生になって初めて、僕なりの理解ができるようになったのであり、僕らの中では、大本営の「歴史」が、戦争の「歴史」よりも先行して教えられていた。いささか複雑なのは、ここではそのひとつひとつを紹介するスペースはないが、松代で語られる大本営の「歴史」はひとつではないということだ。『悲しみの砦』でも丁寧に取材はされているが、僕が、小さな頃に聞いた話はそれだけではなかった。疎開保育園を取り上げこの夏に話題となった映画『あの日のオルガン』。この映画をきっかけとした埼玉県蓮田市での「歴史」掘り起しの動きが思い出される。

「歴史」が、書かれた文書をよりどころとする限りは、その多様性のかなりの部分は、文書の異聞と文書の解釈に帰せられるであろう。そこに語りが加わると、本当に小さな、場合によると瞬間的な経験やそれに対する極めて個人的な受け止め方が「歴史」のよりどころとして追加される。「歴史認識」とよく言われるが、かなり複雑でどう整理していいのか分からない部分が、どうしても残る。僕の中にあるこの未整理な部分が、松代大本営に足を運ぶことを躊躇させているような気がする。(A.T.)

 (3)

松代大本営のトンネルから出ると、一足先に出ていた娘が、信濃毎日新聞の取材を受けていた。翌日の朝刊に載った記事を見ると、「松代大本営のことは知らなかった。もっと勉強したい」とある。確かに、会話の数はかなりあるはずの我が家でも、大本営の話は、ほとんどしたことがない。その機会がなかったのも本当だけれど、僕自身、別に避けてきたわけではないとはいえ、積極的にその話をしようともしてこなかった。

カズオ・イシグロは、ノーベル文学賞受賞の記念講演の中で、1999年10月にアウシュビッツを見学した後の感想をこう綴っている。「そのときまで、第二次世界大戦というものは、数々の恐怖や勝利の話しともども両親の世代のこと、と考えていました。しかし、いま、この巨大な出来事をじかに体験した人々が遠からずいなくなる、と思い当たりました。そのあとはどうなるのだろう。記憶しておくという責務が、私たちの世代に引き継がれるのだろうか。私たち自身は戦争の年月を経験していませんが、その私たちを育てた親の世代は、否応なく人生に戦争を刻み込まれています。物語を公に語る者である私は、いままで気づかずにいたけれど、その責務を引き継ぐ立場にあるのではないか。両親の世代の記憶と教訓を、できるだけ力を尽くして、次に来る世代に引き継ぐ義務があるのではないか・・・」。僕は、小説を書くわけでもなくノーベル賞をもらったこともないけれど、大学で国際関係を講じる立場としては、娘の記事を読むまでもなくイシグロの話には耳が痛い。

イシグロは、この話に続いて、別の機会に次回作について尋ねられた時の回答を紹介している。「これまで、忘れることと記憶することの間で葛藤する個人を書いてきたが、これからは、国家や共同体がこの問題にどう向き合うかをテーマに書いていきたい。国家も、個人と同じように記憶したり忘れたりするものなのか。それともそこには重要な違いがあるのか。国家の記憶とは、いったいどんなものなのか。それはどこに保存されているのか。どうやって作られ、どう管理されているのか」。

日韓関係という時、そこでも問題とされるのは国家と国家の関係であり、まさに、国家による記憶と忘却が争点となる。ただその一方で、最近では、政治や経済の動きとして報じられる反日的な流れとは別に、時にそれに逆行しているようにすら見える、若者層を中心とした反「反日」のデモや、アーティストたちや一般市民による民間交流も報じられている。確かにイシグロが言うように、次の世代に記憶や教訓を引き継ぐことは重要だろう。しかしそれだけではなく、国家などとは別のところで動き始めた、こう言ってよければより建設的な、次の世代の様々な表現や行動にこそ注目し期待していきたい。というのも、どうもその辺りに、僕のなかで松代大本営を訪ねるのを躊躇させてきた「歴史」の未整理な部分と重なるものが隠れているような気がするからだ。(A.T.)

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