書評 絵画の技術 2題 『絵を見る技術』『絵画組成』

  • 2020/3/6

(1) 『絵を見る技術』  秋田麻早子著 朝日出版社 2019年 

 近くの美術館やデパートで開かれる展覧会を自分で選び、出かけるようになったのは中学生の頃だ。手許にある図録などを見返していると、どうやら初めの頃は仏像にはまっていたようだ。確かに、自宅周辺には貞観期から江戸にかけての仏像は多く、そんな身近な仏像たちが展覧会に並べられるのを見に、しばしば出かけたような記憶がある。  ある時期からはもっぱら絵画展に足を運ぶようになった。最近ではコンテンポラリー・アートが加わったものの、相変わらず絵画展が多い。展覧会だけではない。どこかに絵が掛かっていると、つい足が止まってしまうことはしばしばだ。絵画を見る時は、どうもひとりのことが多い。一枚の絵にかける時間が長すぎるのだろう。誰かと一緒に話しながら、という機会はめったにない。何を見ているのか、と時々聞かれる。どう説明したらいいのか分からないのだけれど、いつしか我流の見方のようなものができていた。

 この本を読んで、なるほど、と思った。絵画には文法のようなものがあり、その文法のようなものに沿って見ていくことが解かれている。確かに、我流の見方のかなりの部分も、その文法に従っているようだ。絵画の側あるいはそれを描いた作家の側からすると、表現の文法と言うことになるのかもしれないが、僕のような見る側からすると、目の動かし方や使い方と言った方がしっくりくる。どう見はじめ、目の動かし方の手掛かりをどう探し、何に沿って目を動かすか。動かしながら何を見るのか。目を動かすことで何が見えてくるのか。それはどんなふうに解釈できるのか。と、いった感じだろうか。

 最近変わってきたようにも思うのだけれど、美術館のキャプションには美術史や文化史、あるいは作家についての説明が多いようだ。この本に書かれているのは、個別の作品や作家について話ではなく、かなりの絵画に共通して使える文字通りの「見る技術」が解説されている。序章の部分にシャーロック・ホームズからの引用が何ヶ所かある。確かに、この本全体を通じて書かれているのは、美を愛でる鑑賞の話というよりは、絵画に何らかの文脈を見つけて解釈していく推理の話と言えるかもしれない。どうやら、僕も、そんな風に絵画を見ているようだ。(富田与)

(2) 『絵画組成』  武蔵野美術大学油絵学科研究室編 武蔵野美術大学出版局 2019年

 絵画を見る機会は決して少なくはない方だろう。コロナウイルスのおかげで、この春は、展覧会に出かけられずにいるが、例年ならば、週に2か所以上は回れる時期だ。何とも物足りない。展覧会などで聞こえてくる声を聴いていると、別に盗み聞きをしているわけではないのだけれど、自分で絵を描かれる人も多いようだ。僕はもっぱら見るばかりで、自分で作品を生み出そうと試みたことはいまのところない。ただ、自分でも描く人のことがうらやましく思うことはしばしばある。目の前にある作品がどんな画材でどんなふうに描かれたものか、さらにその作品のどの部分が表現しにくい部位なのかなど等が経験的にかなりの程度まで想像ができるらしい。

 そんなことを考えている時に出会ったのがこの本だ。絵を描くための入門書というのはかなりの数ある。ただ、そうした本から絵を見るための手掛かりを見つけるのは難しい。この本は美大のテキストとして編まれたもので、創作することと鑑賞することの両方を学ぶ学生が読者として想定されているようで、僕のような関心からも面白い。普段、読書をする時に、ためになる本、とされる実用書はどこか胡散臭く感じることが多い。ただ、この本は、ためになる本、として見つけて、面白く読み、実際、実用書とは違う気もするが、ためにもなった。

 絵画組成というのは、絵画は物質から成り立っている、という考え方のようだ。この本ではその考え方に基づき、作家は何を考え、どのように表現したか、ということを、その作家はどんな支持体や絵の具を使い、どんな技術であるいはどんな筆の動かし方で絵画を作成したか、と言った点から説いている。ところどころ工芸の話を読んでいるような感じでもある。確かに、あくまで僕の場合はという話だが、陶芸作品などを見る時には釉薬やら焼成やら大きさや形状への物理的制約が気になるのに較べ、絵画を見る時にそんなことはあまり気にしたことはなかったけれど、絵画も間違いなく物質で構成されており、それが物質である以上様々な物理的制約があるはずである。

 読了したのは昨年の12月半ば。その後、コロナウイルスのせいもあり、展覧会に足を運べたのは一度だけである。絵画を見る時の目の動かし方や使い方は、確かに以前とは変わったような気がする。(富田与)

関連記事

受験生サイト
環境情報学部
コンピュータセンター
ページ上部へ戻る