書評 一歩先の世界 3題 『アフター・ヨーロッパ』『インフラグラム』『純粋機械化経済』

  • 2020/3/14

(1)

『アフター・ヨーロッパ』 イワン・クラステフ著(庄司克宏訳) 岩波書店 2018年

 これを欧州分裂と呼ぶのは性急かもしれない。とはいえEUの28年の歴史のなかで初めて脱退国が出たのは確かだ。英国である。2016年の国民投票以来、国内的にも国際的にもいくつもの混乱を経て、1月31日、ようやく英国はEUのメンバー国ではなくなった。ブルガリア生まれの政治学者イワン・クラステフはこの本のなかで「欧州分裂を想像することは、フィクション作家の間でも流行したことがほとんどない」と言っている。英国のEU離脱は、国民投票以降のすべての過程を含めて、フィクション以上に想像力が必要な出来事だったということだろう。

 クラステフは結果的に欧州は四分五裂すると考えているようだ。問題となるのは難民危機とポピュリズムの台頭である。「第1章、われわれ欧州人」では、欧州での難民に対する寛容さの喪失は、われわれ欧州人と流入してくる人々との対立だけではなく、われわれ欧州人のなかの分裂によりもたらされたものとされ、その分裂ではナショナリズムの台頭がリベラルを後退させているという。「第2章、かれら人民」では、EUの機能的な中心となっているブリュッセルやそれぞれの国の首都に集まる伝統的なエスタブリッシュメントや能力主義的なエリートに対する憤りがポピュリズムを生み民主主義を揺るがせているとしている。結局、この本全体で語られているのは「外国人が自分たちの国を奪い、自分たちの生き方を脅かしている」という認識を欧州の多数派が抱くようになったという状況下での政治現象と見ることができるだろう。

 この本ではハプスブルク帝国の経験がしばしば参照点とされ、広大な版図を持っていたハプスブルク帝国がナショナリズムの台頭のなかで分裂していった過程が現在の欧州と重なるようだ。その上でクラステフは言う、「欧州のリーダーたちにとって、ハプスブルク帝国が1918年に崩壊した理由を理解することよりも、それより前の1848年、1867年、あるいはその他の多くの機会に分裂しなかった理由を理解することのほうが重要である」(p.118)。この本でのクラステフの指摘は欧州だけに限った問題ではないだろう。冷戦終結後の国際関係を見れば、いったんコスモポリタンな方向に向かったかに見えたものの、現状では、その流れは全くの逆向きになってしまったかに思える。歴史が単純に繰り返すとは思わない。とはいえ歴史から学べることがあるのも確かだろう。ただその時に考えるべきは、欧州ではハプスブルク帝国が参照点となっていたが、国際関係全体を考えたとき、欧州のハプスブルク帝国に相当するようなモデルはあるだろうか、ということだ。何をモデルとするかで、一歩先の世界の形は違ってくるように思われる。(富田与)

  (2)

『インフラグラム』  港千尋著 講談社選書メチエ 2019年

 「インフラグラム」というのは港千尋の造語で、情報化社会のインフラとなった写真や映像のことを指すという。確かに写真や動画を見ることはもはや当たり前の日常となっており、そこに写真や動画があっても注意して見なかったり、場合によっては気づかなかったりすることもある。インフラは当たり前にそこにあり、日常生活のなかでその存在をことさらに意識することはなく、その結果、誰がそれを作り、それはどう作られどんな仕組みになっているのかを考えることもない。その結果、インフラは、形のあるモノとしては認識できるがその中身までは分からないブラックボックスになってしまう。インフラグラムもそうなっている、と港はいう。

 基本的にはアートに関する本だ。ただ扱われている内容は、アートに関連させながら、視線、SNS、監視社会、軍事などなど、現代の在りようを写真や映像を軸足に描いている。学問領域を八艘跳びしながら引用も多彩で、議論を追いかけるのに多少手間がかかる。何かまとまった結論があるわけではないようだが、冒頭から登場する三上晴子の体験型作品「モレキュラー・インフォマティクス ―視線のモルフォロジー」をはじめ引用されるアート作品や言説には現実の社会への参照点として頷けるところが多い。

 この本を探したのには2つの理由があった。ひとつ目は、港は2016年のあいちトリエンナーレで芸術監督を務めていたからだ。この本でも数は多くはないもののその時のアーティストや作品が紹介されている。もうひとつの理由は視線である。以前にも何回かここのエッセイでも書いたが、一昨年、ビブリオバトルで『十二世紀のアニメーション』(高畑勲著 徳間書店)を紹介した時に高田先生から、視線が気になりますね、とコメントいただいて以来、気になっているテーマだ。

  港はこの本のなかで、視線の持つ多様な側面を色々な形で取り上げている。これまで僕が気にしてきたのはもっぱら描かれた視線だった。それもそこに描かれた目が作り出す、あるいは作り出しているように見える視線だった。この本で気づかされたのは、自分自身の、つまり僕自身の視線である。それも何らかの作品を見る時の目の動かし方などというのではなく、何かを見る時の視線そのものの存在である。普段は、そんなものには気づかないし、そんなことしていたら生活に支障がでるだろう。つまり、視線そのものもインフラなのかもしれない、と思った。

 さて、もしこのままインフラグラムの時代が進んでいくとしよう。インターネットやSNS、さらに監視カメラの存在などを考えると進んでいかない理由は思いつかない。その時、一歩先の世界では、多くの視線が、それとは気づかれないまま、あるいはブラックボックスのなかで、複雑に交錯するようになることは間違いなさそうである。(富田与)  

(3)

『純粋機械化経済』 井上智洋著 日本経済新聞出版社

 2019年 AIという言葉はもはやプラスチック・ワードの仲間入りをしたのだろうか。それが指し示す意味内容つまり定義が曖昧のまま、特にその定義が意識されることもなく、様々に都合よく加工され都合よく使われはじめている。プラスチィック・ワード。ドイツの言語学者で作家でもあるウヴェ・ペルクゼンが使いはじめた言葉で、その訳書『プラスチック・ワード』(糟谷啓介訳 藤原書店 2007年)裏表紙に「(前略)科学言語のように歴史を欠き、権威はまとっているが内容は空虚、組み合わせが容易で文章を自在に生み出すが、具体的文脈のなかで意味を特定できない(後略)」とその特徴がまとめられている。

  AIの回りには本当に多様なイメージが形成され、その都度都合よく加工されたイメージがあたかも定義ででもあるかのように独り歩きをはじめ、そんな無数のイメージたちがAIという言葉を取り囲んでいるようだ。定義、原理、理論と言った分かりにくい部分を遠巻きにしながら分かり易さばかりを演出した、こう言ってよければ劇場型解説が、量産されることで、AIの分かり難さは加速化しているようですらある。

 この本は決して読み易い本ではない。AIそのものの原理や理論のような理系的な部分は少ないもの、ページの大半を占めるAIを軸とした経済、政治、社会といった人文社会科学領域の部分は、多領域から原理的な説明を引いており、心してかからないと文脈を見失いかねない。ありがたいのは、経済的な部分では、経済学理論から議論を積み上げてくれているところで、それまで分散的にしか知らなかった知識を系統的に理解することができた。しかも、AIの誕生とその影響を人類の産業史のなかで位置づけようとする試みは、うっかりすると退屈になってしまう理論や原理の静態的な部分を歴史の動態に据え、一歩先の世界にまで視線を向けるもので、納得と疑問を取り混ぜながら読み応えがあった。

 本には色々な読み方がありこの本も色々に読めるに違いない。ただ、僕が書店でこの本を手に取りページを捲りながら期待したのは、すでに膨らみ過ぎているAIのイメージや情報に一定のまとまりと筋道を見つけることだった。経済や社会はヒトが作ったものでありながらすでにヒトに強制力を持つようになっている。同様に、機械たちもヒトが作ったものでありながらヒトに強制力を持ち始めているのではないか。そのひとつの到達点がAIのように見える。社会や経済の強制力も機械の強制力も政治を通じてヒトが規制することができるはずだ。当面、そうした政治あるいは政策は国家という枠組みのなかで実現せざるを得ない。そんな僕の問題関心と著者のそれとが類似していたこともあり、読了後、AIを考えるためのまとまった参照点に出会った気がした。(富田与)

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