書評 音楽のある小説 3題 『蜂蜜と遠雷』『夜想曲集』『マチネの終わりに』

  • 2020/3/19

(1) 『蜂蜜と遠雷』 恩田陸著 幻冬舎 2016年  

 物語の筋は、芳ヶ江国際ピアノコンクールに参加する4人のピアニストたちの予選から本選までのあれやこれや。読みながらずっと聴覚が刺激されていた。会場やロビーやパーティーや海辺や街の音、もちろんピアノの音もある。ただ、登場するピアノ曲のうち知っているのは半分にもならないので、聞こえてきたピアノの音の多くは文章を読みながら僕の脳が勝手に作ったものだろう。そうはいっても、音源の所在は文章そのものではなく、文章を読みながら思い出した幾つかのテレビ番組で聞いた音たちのようにも思える。そこから脳が勝手に選択し無断で引用したコピペかもしれない。思い出した番組というのは、「蜜蜂と遠雷~若きピアニストたちの18日~」(これには特別編もある)と「もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い〜」、そして「ピアノの森」の3つで、はじめの2つはドキュメンタリー、最後はアニメである。いずれもNHKで放送された。

 そもそもこの本を探そうと思ったのは、「蜜蜂と遠雷~若きピアニストたちの18日~」を見たからだった。番組の着想はこの小説から来ている。番組に登場するピアニストもこの小説のモデルとなった浜松国際ピアノコンクールの出場者だ。小説の方では、コンクールへの出場者やその指導者あるいはコンクールの審査員の他に、出場者を取材するジャーナリストも、取材対象であり同級生でもあったある出場者とともに登場している。この小説ではさらに、調律師が登場する。参加者と協力しピアノを鳴らせようと奮闘する欠くべからざるバイプレーヤー。番組の舞台は浜松ではないけれど、「もうひとつのショパンコンクール〜ピアノ調律師たちの闘い〜」で描かれている調律師の姿は、企業間競争という小説にはない要素が大きく加味されるとはいえ、この小説に登場する調律師のそれと重なる。

 「ピアノの森」の主人公とどこか似ているコンクール参加者がこの小説にも登場する。彼らのことをいったいどう表現したものか。この小説を読んでいるとピアニストの周りにはピアノを演奏すること以外に、これは研究者も同様ではあるが、評価はもちろんのことビジネスや社交や師弟関係や容貌・容姿や、色々なものが纏わりついているようだ。彼らはそうしたものを気にしていない。才能が有り過ぎるのに素朴過ぎて、型破りのせいもあり評価が割れる。読了後、音楽史や美術史の本でしばしば見かける「古典主義vs.ロマン主義」や「サロンvs.印象派」などの、芸術あるいは表現活動と言ってもいいのかもしれないが、そうした領域での正統的なものと新しい試みとの対立関係を思い出した。確かにこの物語のひとつの柱もそうした対立的な考え方にあるのだろう。ただ、そうした一般的な枠組みが、この小説では、ピアノでのライバル関係やピアノの外での人間関係のなかで、ダイナミックな止揚とでも言いたくなるような形で、次第に変化していく。登場人物たちが持つ、そしておそらく作家自身のそれもあるのだけれど、競争心と同居した柔軟な創造性と人間性がうらやましく感じられた。(富田与)

  (2) 『夜想曲集』イシグロ・カズオ著 ハヤカワepi文庫 2011年

 これまで、カズオ・イシグロの小説は、長編の『浮世の画家』、『日の名残り』と、この短編集『夜想曲集』しか読んだことはない。ここに収められているのはサブタイトルにある通り「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」である。どの作品を読んでも、作品を読みながらしばらくすると物語が展開する舞台の情景が、僕の頭のなかで、なぜか映画のような動画ではなく次々に映し出される古い写真のスライドのような形で像を結ぶ。例えばこの本に最初に収められている「老歌手」では、ベネチアのサンマルコ広場だったり運河に浮かぶゴンドラだったり。別の作家の別の作品からの引用がどの程度意味あるものかは分からないが、平野啓一郎の『マチネの終わりに』にこんな一節がある。「結局のところ、記憶がいつもそうであるように、瞬間々々の光景がちらつくばかりで、洋子の声やジャリーラの声が蘇るときでさえ、彼女たちの姿は、再生されかけたまま止まってしまった動画のように、それについて行くことができないのだった」(p.178)。こんな感じに似ている。

 この本に収められた5編には幾つかの共通点がある。2編では同じ人物が登場してもいる。共通しているのは、まずは音楽、追憶、ぎくしゃくとした夫婦関係、そして才能。特段に意識して選んでいるわけではないのだが、最近読む本にはいくつもの才能が登場する。美術、文学、音楽、映画、アニメなどの本が多いのだから当然と言えば当然だが。この本で描かれているのは、例えば、評価されなくなった才能(「老歌手」)、行き詰まった才能と苛立つ才能の出会い(「モールバンヒルズ」)などなど。なかでも最後の「チェリスト」ではあらためて、才能って何だろう、と、色々な感情をごちゃまぜにしながら考えさせられた。

 これまでに読んだ長編2本でも、この本に収められている短編でも、読みながらしばしば同じことで迷う。笑っていいのか。普段ならば素直に、それも思いっきり笑ってしまう方だが、イシグロ作品ではなぜか躊躇される。物語としてだけなら、おそらく笑ってしまうだろうけれど、読みながらお近づきになった登場人物を目の前にすると、礼を失してはいないか、などなどどうでもいいようなことが口の筋肉の自由を奪う。もちろん登場人物たちの持つ品格のようなものがそうさせるのだろうけれど、そう思えるほどに僕には、入り込みやすい作品たちであるようだ。(富田与)

  (3) 『マチネの終わりに』 平野啓一郎著 文春文庫 2019年

 以前から気にはなっていながら、なかなか手にすることのなかった本なのだけれど、今年初め、帰省先の近くにある温泉施設の本棚でたまたま見つけ読み始めた。女性ばかりの家族なのでこんな場所ではひとりの時間が多い。とはいえ、わずかな時間で読み終われるはずもなく、かといってこのまま中断させることもできず、近くの書店で探して続きを読んだ。昨年夏に他界した母親の用事やら何やらで中断しながらも読み続け、帰省帰りの列車のなかで読了。後から読んだ書評や解説では、余韻とか、いつまでもひたっていたいとか、読後が色々に書かれているが、その時の僕の感じは、抜け出せなかった、と言ったところか。

 作品の筋だけを取り出すならば、当たり前と言われればそれまでだが裏表紙の短い説明以上に上手くはまとまらない。一部を引用する。「天才クラシックギタリスト・蒔野聡史と、国際ジャーナリスト小峰洋子。四十代という“人生の暗い森”を前に出会った二人の切なすぎる恋の行方を軸に、芸術と人生、父と娘、グローバリズム、生と死などのテーマが重層的に描かれる」。読了後、僕が抜け出せなかったのは、重層的に描かれた、父と娘、グローバリズム、生と死など幾つかのテーマは自分の過去、現在あるいは未来と重なるところがあり、それらの間を、小説の中だけでなく自分自身と小説の間で行き来していたからだろう。問いが生まれたりそれに答えたり、頷いたり首を振ったりという、いつもの僕の思考がいつの間にか発火していた。

 読了後、もうひとつ、1年半ほど前の出来事を思い出していた。四日市映画祭のお手伝いをしていた頃のこと、新里猛監督の映画で2度にわか役者をさせていただいた。思い出したのは、その2回目の撮影のときのことだ。台詞じゃなくて演技で表現できませんか、新里監督からの指示が飛ぶ。どうも僕は、何かを表現しようとするとき、ついつい言葉に頼ってしまう。それもかなり直接的な表現で。だから、演技でほのめかしたり暗示したりするのはあまり得意ではない。ようするに役者のような演技には向かないということだろう。 これは逆もまた真なりで、どちらかというと直接的な言葉で丁寧に書き込まれた表現や物語には入り込みやすいようだ。もちろん気に入っているのがそんな物語ばかりという訳ではないけれど、描かれているテーマが僕とは当面関係のないものだったとしても、直接的な言葉で丁寧に書き込まれていれば辿っていける。そうしているうちに共感と思考の発火とが同時に現れ、結局、そこからなかなか抜け出せなくなる。描かれているテーマが僕自身と関係している時には尚更だ。もちろん以前から気づいていたことではあるのだけれど、この本を読んで再確認させられた。(富田与)

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