時事雑感   自粛の毎日

  • 2020/4/12

(1)  

 色々な形で「緊急事態宣言」やそれに類するものが出されて以来、最低限の外出以外は家に籠って自粛の毎日を送っている。籠りながらしているのは報道を追いかけることと読書で、報道はもっぱらCOVID-19とその周辺、読書の方は乱読である。どちらも研究や日常生活のルーティンの延長ではあるのだけれど量も質も普段とはずいぶん違う。そんなことを始めて何日かしたとき、にわかに、緊急事態宣言、自粛という表現やそれぞれに対応した状況にどこか釈然としないものを感じ始めた。

各国政府の対応ぶりを伝える海外からの報道には禁止や制限という表現が多い。日本でも「緊急事態宣言」が出ているとはいえ、禁止や制限といった強制力を伴う政策はほとんど見られない。ところが、この「緊急事態宣言」を報じた海外の記事では、少なくとも英語とスペイン語の報道では、「緊急事態宣言」には「非常事態宣言」と同じ表現が使われている。英語では“State of Emergency”、スペイン語では”Estado de Emergencia“となる。1980年代から2000年代にかけて点々と4年間ほどをペルーで過ごした僕には、このEstado de Emergenciaという表現が重く響いてくる。夜間外出禁止といった厳しい措置に加え様々な暴力の記憶がそこに重なる。

 卒論調査で初めてリマに入ったのは戒厳令の夜だった。リマの隣カリャオの沖にあるエル・フロントン刑務所からテロ容疑で収監中だった反政府組織センデロ・ルミノソ(輝く道)の主要メンバーが脱獄し逃走中だという。途中立ち寄ったニューヨークのホテルで読んだ新聞でそれを知った。戒厳令もスペイン語ではEstado de Emergenciaと表記されることが多い。オーバーブッキングのあおりで予定が遅れ、まさかの夜間外出禁止令下のリマ入りとなった。検問では自動小銃を突き付けられながら尋問され、調査地のアンデス山中の町ではテロリストに間違えられ武装した軍人たちがホテルの部屋までやってきた。その2年後に日本大使館に派遣されてからは、任期の2年余りの時間をずうっと非常事態宣言令下のリマで過ごした。週末の夕方には決まったように高圧鉄塔を破壊する爆音が遠方から聞こえる。停電が街なかに近づき、そのうちに銃声が大使館の近くからも聞こえるようになる。ほとんどがセンデロ・ルミノソの攻撃で軍や警察がそれに応戦する。比較的身近で爆弾テロにも何度か遭遇した。

 内戦下での非常事態宣言とは違うのだから当然と言ってしまえばそれまでだが、僕の自粛生活はいまのところ静かに過ぎてはいる。ただ、医療現場や飲食店の経営現場などの様子を報道で見たり聞いたりすると僕のなかにある非常事態宣言の記憶がわずかに蘇る。自粛や緊急事態宣言と一言で表現されはするけれど、その状況をどう経験するかには、それぞれの立場や場面により普段の生活以上に違いがあるのは確かそうだ。いま僕にできるのは自粛しかないのだけれど、ただ僕が静かに自粛ができるのには厳しい状況で働いている人々の存在がある。自粛の静けさ故もありしばしそのことを失念していた。(富田与)

  (2)

 ひとつのテーマで海外からの報道を追いかけていると、ある瞬間、何かが変わった、と思うことがある。ゼミなどでこんな話をすると、どうしたらその瞬間が分かるんですか、としばしば聞かれる。残念ながら答えようがない。最近やり取りが増えた情報や報道に関係の深い知人に、そういうのを勘って言うんですよ、と教えられた。海外からの情報や報道と毎日付き合うようになって30年以上になるのだから、確かに、勘なのかもしれない。

 さて、その勘のせいなのか、ごくごく最近になりCOVID-19に関する海外からの報道が変わったような気がしている。COVID-19についてはテレビも新聞もそのホームページにLiveUpdatesを建てるようになり、現地からの速報体制とでも言ったスタンスをとるところが増えていた。LiveUpdates以外の一般記事でも特派員や現地記者が取材した自社記事が多かったのだけれど、どうも最近になり、通信社の配信や現地のテレビ報道をキャリーしたり、遠方から現地にいるNGOなど支援関係者にインタビューした記事が増えている。戦争報道でも時々同じようなことが起こる。

 以前からルーティンのように報道機関などのホームページにアクセスし、そこに掲載された記事を読んでいた。それがルーティンのようになっていたからかもしれないのだけれど、掲載された記事は取材した記者をはじめ編集など多くの人が関わっていることを忘れていた。いや、忘れていた訳ではないが、そのことに注意を向けることはほとんどなくなっていた。静かな自粛のなかでのルーティンにいささか緊張感が欠けていたのは否めない。

 そんな最近の記事の変化をフックに幾つもの疑問、いや不安というべきかもしれないが、そんな問いたちが脳内で上昇してきた。僕はいったいいつまでこのルーティンを続けられるのだろう。取材をする人が現地にいられなくなったら報道はどうなるのか。非常事態宣言下で行動や情報に制限が強くかけられるようになったら、その土地の様子は誰が伝えるのか。仮に、外からの情報や報道が少なくなったら、あるいは正確ではなくなったら、日本に迫っているかもしれない脅威を知るにはどうしたらいいのか。そもそも、もしそんなことになったら、フェイクニュースなのか否かを見分ける方策すらなくなるだろう。

 これにはインターネットの持つ罠のようなところもあるかもしれない。インターネットを通じて得られる情報の多くには、情報を提供する側からの支払い請求が伴わない。情報の受け渡しにも、当然の話ではあるが、他の誰かとの対面でのあるいは会話を通したコミュニケーションは介在しない。コンピュータの電源を入れブラウザを立ち上げ、そしてホームページにアクセスしさえすれば情報は自動的に現れ、それまでのあいだコンピュータを操作する自分以外に他の人間の姿は登場しない。これは、危険のなかでの取材や慎重な編集などを背景に持つ、信頼性の高い報道記事がインターネットに載せられている時も同じである。

 勘というのは当たれば流石だと褒められるが外れれば呆れられる。ただ今度の勘について言えば、それが勘だとすればの話ではあるが、名前しか知らない現場のジャーナリストを思い浮かべながら、自粛生活で勘が狂っていたのかと呆れられた方がいい。(富田与)

(3)

 家に籠るようになってから読書の時間だけは普段以上に取れる。懸案になったままの幾つかの研究の資料を読み込むことも考えた。ただ、以前ペルーのコレラ禍や新型インフルエンザをめぐる国際関係で何本か論文を書いて以来、国際的感染症対策も継続的な関心事のひとつになっていて、COVID-19の報道を追いかけていると、それ以外に何か別の研究資料を集中して読み込む気にはなれない。そんな時はやはり、乱読に限る。

 まずは、以前このエッセイでも書いたが、積読文庫に集めた15冊から読み始めることにした。これも以前書いた通り、本は本を呼び積読文庫が枯渇することはない。昔読んだ本やインターネット経由で購入した新刊、あるいは図書館から借りてきた本などなど、美術館・博物館が閉館されるようになってから何となく禁欲していた展覧会の図録にも手を出した。そうこうしているうちに、これが不思議なもので、いつの間にやら関連のある本を探してみたり、それまでまったく無関係だと思っていた本同士の間に何がしかの関係性を見つけてしまったりしてしまう。新しいテーマや関心の発見と言えば体はいいのだけれど、実際にはただ単に気になり始めてしまうだけなのだ。その時読んでいる本の内容や以前読んだ本の内容、あるいは、同じような内容の本やその内容を掘り下げたり別の角度から光を当てたりした本の所在、などなど。

何がしかの関係性のようなものを見つけてしまうのは本と本との間だけの話ではない。記憶や経験といった、公刊された本とは違って極めて個人的なものたちまでもが招喚され、その個人的なものたち同士の間やそいつらと本たちとの間にもまた関係性が見つかる。いや見つけてしまったり、創り出してしまったりする。ある本を読んでいると、以前見たそれにまつわる絵や光景、匂いや音、一緒にいた人やその時の体験などなどが記憶のアーカイブでヒットする。それがさらに別の本や別の個人的な記憶や経験に繋がっていく。整理するつもりなど毛頭ないので、いかにも不格好な知識や記憶や感覚のネットワークのようなものが勝手に僕のなかで広がり続け、何かの折にうかつに立ち止まってしまうと、何やってんだ俺は、となる。実際、この間、うかつにも何回か立ち止まってしまった。

こんな乱読をする時、何と言っても有難いのはネット通販とそれを配達してくれる宅配便だ。そもそも四日市では読みたい新刊を店頭で手に入れるのが難しいのは昔も今も変わりはないのだが、それに自粛が加わると、残念なのだけれど書店にはなかなか足が向かなくなる。ネット通販はコンピュータ通信の頃から同じ書店を使っている。ここ数年で大きく変わったのは、以前は速ければ翌日には配達されていたのが、数日かかるのが当たり前になったことと、小さな包みの時には郵便受けに入れられるようになったことだろう。人手不足を考えると当然の変化ではある。ただ、直接手渡されサインをするのは、店頭で交わす会話とは違うのだけれど少しだけ言葉を交わすこともあり、何気に嬉しい。自粛生活に入ってから2回ネットで発注した。どちらも包みの大きさに違いはない程度の冊数だ。1回目はサインをしながら天気の話をした。2回目は、自動車の音を聞きつけ玄関に向かってはいたのだけれど、郵便受けが受け取っていた。社会的距離ということだろうか。(富田与)

関連記事

受験生サイト
環境情報学部
コンピュータセンター
ページ上部へ戻る