書評 乱読3題 『異人論』 『戒厳令の夜』 『神話の果て』

  • 2020/4/12

『異人論』 小松和彦著 ちくま学芸文庫 1995年

 まだ武漢で厳しい規制が敷かれていた時期の話だ。中国のある町の入口で古代の武将のような出で立ちで外部からの侵入者を見張っている男性の姿が報道された。はじめは関羽かと思った。5年ほど前に桑名市博物館であった「大定信展」で見た松平定信の「関羽像」に似ていたからだ。確かに関羽信仰というのはあるけれど、なぜ関羽なんだろうと首を傾げていると、今度はむかし端午の節句の頃によく軸で見かけた鍾馗(しょうき)の絵を思い出した。鍾馗ならば頷ける。玄宗皇帝の瘧(「おこり」と読む。マラリアのこと)を駆逐し、日本でも厄除け、魔除け、疫病除けなどの霊験があるとされ、端午の節句に飾られるのもそれ故だ。

 検疫にしても入国拒否にしても、あるいは鍾馗にしても、基調にあるのは困ったものは外からもたらされるという発想だろう。以前、ここのエッセイでも書いたことがあるけれど、日本の民俗文化にあるとされるマレビトすなわち外来者は、必ずしもそうしたネガティブなイメージだけで語られるわけではない。この『異人論』では、そうしたムラの外にいる異人にはどのようなものがあり、それがどのようにムラと交渉し、そうした異人や異人との交渉はどんな形でムラの語りに取り込まれ変形してきたかが分析されている。

 決して読み易くはないのだけれど、議論について行けば、ごまかされた感じがなく主張が分かる。六部のような宗教者、山姥などの女性、職人などの山人などが異人とされ、そうした異人や異人と交渉を巡る語りやそこから生まれた語りが、共時と通時の両面から分析され、マレビトの考え方も俎上に上げられる。妖怪の話は、現代の都市伝説を考えるうえでも色々な手掛かりになりそうだ。テーマがテーマだけにそこまで言ってしまっていいのか、と冷や冷やしながらも、この本の議論の展開そのものは痛快で明快だった。

 読了後、考え込んだ。POST-COVID-19を迎えたときのことだ。検疫や入国拒否、特定の業種に対する偏見や、外国からの報道は確実に増えている特定の宗教や民族に対する排除、さらには女性に対する暴力などこの本で取り上げられたテーマとも重なるCOVID-19のパンデミックのなかでの「異人」への対応と、やっと迎えられたPOST-COVID-19での平穏な日常との間に、一体どうやって折り合いをつけてやれるのだろうか。どのような「語り」が生まれてくるのだろうか。あるいは生んでいったらいいのだろうか。いや、そもそも日常の方が変わらなければ、折り合いなんぞ付けようはないのかも知れない。どうやら妖怪アマビエが再び姿を見せているようだけれど、おそらく「妖怪」の出現はそれだけでは終わらないだろう。近未来の「異人論」が気になりだした(富田与)

『戒厳令の夜』 五木寛之著 五木寛之小説全集30(上)31(下) 1981年

 これを読もうと思い立ったのは、政府が「緊急事態宣言」を検討し始めたと報じられた日だった。海外の報道を追いかけながら、非常事態宣言、戒厳令、という類義語を思い出していた。英語やスペイン語ではしばしば同じ表現が使われる語群である。この時、2つの作品をほぼ同時に思い出した。ひとつがこの『戒厳令の夜』でもうひとつが『神話の果て』だ。『神話の果て』は研究室の書棚にある。『戒厳令の夜』の方は映画では見ているのだけれど、原作は読んだことがない、と思う。記憶のアーカイブを辿っても研究室の書棚にその本が置かれている映像は出てこない。まずは『神話の果て』を家に持ち帰り、それから『戒厳令の夜』を探すことにした。映画はそれなりに話題になったので、おそらくすぐに見つかるだろうと思っていたのだけれど、甘かった。新書は版が切れている。古本屋でも見つからなかった。カミさんが四日市市立図書館で見つけてくれた。とはいえ、借りた本には当然のように返却期限がある。かくして『戒厳令の夜』から読む運びとなった。

 大学でスペイン美術史を学んだ江間は、勤務先の映画雑誌の出張で訪れた博多のバーで伝説の画家パブロ・ロペスの作品に出合う。ロペスの作品を追いかける江間と恩師の娘・冴子は、福岡、タヒチ、チリと舞台を移しながら、正史では語られることの少ない日本の山人と海人との関係、略奪されたナチス絵画の歴史、第二次世界大戦後の復興に絡む疑獄事件、そして短命のアジェンデ政権と米国の陰謀などなど、スケールの大きな時空間の中で、それぞれの個人史や家族関係に媒介されながら、必然と偶然とを綯交ぜにしたようなその時々の出来事のなかに絡めとられていく。

 息もつかず、そんな訳はないけれど、最後まで一気に読んだ。次から次に僕のなかで知識や記憶や感覚のネットワークが広がった。山人と海人では読み終えたばかりの『異人論』が繋がった。ナチス絵画はそれをテーマにした映画の評論を書いたことがある。ラテンアメリカの軍政と民主化はもともとの僕の専門領域。戒厳令下のラテンアメリカ都市には多少の皮膚感覚もある。点々と登場するピカソ、ゴーガンなどの作品のイメージとも、幸い知らない作品はなかったので、スムーズに繋がった。

実に細かな話もある。例えば「おきゅうと」である。以前、高田先生と年越し魚の話をしていたときのこと、福岡の正月料理に「おきゅうと」というのがあると教えてもらった。海藻から作る羊羹のようなものらしい。この作品では「トコロテン」にたとえられている。ついでながら、海のない長野の正月料理にも「エゴ」という海藻から作ったやはり羊羹のような料理がある。待てよ、山人と海人の交流の名残りか・・・。書き始めれば切がない。

読了後しばらくしてから、以前、何かの折に永井先生がこの作品の話をしていたのを思い出した。読んだよ、と伝えた。五木で一番おもしろいのは・・・・、と別の作品を紹介してくれた。それはまたいずれ。読書仲間はありがたい。(富田与)

  『神話の果て』(上)(下) 船戸与一著 講談社文庫 1988年

 最初の「緊急事態宣言」の報道のとき『戒厳令の夜』と一緒に思い出した。図書館で借りたので返却期限のある『戒厳令の夜』とは違って研究室の書棚に並んでいたせいで読むのが後になった。初めて読んだのは30年以上も前、だから紙の劣化がかなり進んでいるのだけれど、在ペルー日本大使館に赴任する直前の頃だった。僕が先に読んで友人に薦めたのだったか、その友人が先に読んで僕に薦めてくれたのだったかがはっきりとはしないのだが、この作品を読んだその友人から、ペルーは大丈夫か、と心配されたのだけは良く覚えている。

文化人類学の研究者から民間の破壊工作員に転身した志度正平が、エル・フロントン刑務所でのテロ容疑者脱獄事件を利用して、アンデス山中でインディオの独立を目指して活動する組織の分断を目指しその組織の中に潜入する。初読の時も今回読んでみても同じなのだけれど、僕自身の個人的な経験も反映しているせいもあり、改めてストーリーや描写のリアルさを感じた。

 エル・フロントン刑務所からの脱獄は、登場人物やストーリーのかなりの部分はフィクションだが、実際にあった事件で、僕が卒論調査でリマ入りしたのは事件の直後のことだった。そのころ僕は文化人類学を専攻していて卒論のテーマはアンデス伝統村落の環境利用。この作品で志度はリマから海岸の砂漠地帯を経由してアンデス山中に向かう。その過程に登場する地名や光景には馴染みのあるものが多く、それぞれの記憶やイメージを脳裏のアーカイブから網膜裏に逆照射しながらその描写を読み進めた。アンデスの伝統村落や街のところでは、僕自身が調査に入った村やテロリストに間違えられて軍に踏み込まれたホテルのある町の様子が思い出された。その後、日本大使館に赴任して間もなく、調査地だった村でセンデロ・ルミノソの急襲があり住民のかなりの人々が殺害されたことを報じた新聞記事を含め、テロ情報の公電をまとめたのを思い出した。大学の研究室のどこかにある、調査の時のフィールドノートには、急襲で殺害された村長や学校長からの聞き取りが残っているはずである。

 今回読み返してみた気づいたことが幾つかある。以前読んだ時は、赴任直前だったこともあり僕自身も冒険心みたいなものが先走っていたのだと思うが、この作品で描かれている組織のなかの個人の意味や人の名前の重さにまでは目が向いていなかった。ただ冒険小説のネタバレはどうもいただけない。色々なところで人間の思い込みの怖さを考えさせられた、とだけ言っておこうか。(富田与)

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