時事雑感  マグダラのマリア

  • 2020/4/12

(1)

 研究室の本棚に作った飾り棚(?)でそれまで1枚だったポスターカードが2枚になった。昨年12月、名古屋市美術館で開かれた「カラヴァッジョ展」で買った「法悦のマグダラのマリア」が増えた。「マグダラのマリア」のことを初めて知ったのはペルーのリマでだった。1988年末、それまで住んでいたペンションからアパートに転居した。そこの住所が「マグダレナ・デル・マル(Magdalena del Mar )」区だった。マグダレナは「マグダラの」という意味の女性名詞に対する形容詞の形、マルは「海」という意味。もうひとつ意味が分からない。アパートの大家に聞くと、彼女はユダヤ教徒だったが、マグダレナは「マグダラのマリア」のことだと教えてくれた。そうだとするとこの地名は、海のマグダラのマリア、とでも言った意味なのだろうと推測した。ただ、マグダラのマリアって誰だ、説明はしてくれたのだけれど、もうひとつよくわからなかった。日本に戻ってから、何かの機会に、マグダラのマリアがキリストの磔刑図などでは聖母マリアと一緒にしばしば描かれていることを知った。リマで僕のアパートがあったマグダレナ・デル・マル区の隣には、「ヘスス・マリア(Jesús María)」区というところがある。ヘススは「イエス」、マリアは「マリア」だ。イエスと聖母マリアということなのか、あるいは単に聖母マリアのことだけなのか、もうひとつはっきりはしないのだけれど。ただ、いずれにしても、「マグダレナ・デル・マル」と「ヘスス・マリア」の2つ地名が並ぶと、そこからは何気にキリストの磔刑図のような宗教画が思い起こされそうな気がする。

カラヴァッジョの「法悦のマグダラのマリア」に話を戻そう。画題や背景を知らずに見たらきっとそうは見えないようにも思うけれど、マグダラのマリアが描かれている以上宗教画なのだろう。僕の目は、どちらかというとどこか新鮮に見えたり何かを発見しやすかったりする、僕にとってはという話ではあるけれど、印象派以降の作品たちの方に向きがちで、そんな展覧会の方につい足も向いてしまう。宗教画や歴史画には神話や仏像の持物のように描かれたのが誰なのかを象徴的に示す物や動植物であるアトリビュートの教養を試されるようなところがあり、もちろん嫌いではないのだけれど、正直なところ敷居の高さを感じることが少なくない。そんなせいもありバロック期の絵画はあまり見たことがなく、「カラヴァッジョ展」では久しぶりに音声ガイドを使ってみた。「法悦のマグダラのマリア」のガイドも付いていた。

(2)

この絵「法悦のマグダラのマリア」の存在は『マグダラのマリア』(岡田温司著 中公新書 2005年)で知った、つもりでいた。ただその本では画題は「悔悛のマグダラ」とある。新書本のモノクロ写真だったのでもうひとつイメージが湧かないまま、実はそれほど期待もしていなかったということもあるのだけれど、展覧会でこの作品に出合った。会場全体の人出も多かったのだが、特にこの作品の前ではなかなか人が動かなかった。ただそれだけではなく、この絵を見た僕は、驚きとも感動ともつかないため息をしてからしばらく足が動かなくなった。音声ガイドの解説も聞いてはみたものの、その解説は何となく僕の印象とは馴染まなかった。

結局、また、いつもの我流の鑑賞法に頼ることにした。この時は『マグダラのマリア』で見た「悔悛のマグダラ」との印象が違い過ぎてまずはそれを整理することから始めた。はじめはモノクロとは違い色彩があるせいだろと思った。ただどうもそれだけではなさそうな気がして画肌をよく見ると、カンバスの皺なのかマリアの白い肌の部分に「法悦」という言葉の含みを教えるような独特なニュアンスがある。カラヴァッジョ自身が身近に置くために運び続けた作品だというから、カンバスを枠から外して運んだり運搬の時にカンバスが枠から外れてしまったり、あるいは表面がこすれてしまったりして付いた痕跡なのかもしれない。いずれにしても「悔悛」というのとは少し違う、官能的なところがあるような気がした。アイキャッチの写真でははっきりとはしないのだけれど右下の方には頭蓋骨が置かれている。「メメント・モリ(Memento Mori)」だろうと思った。メメント・モリは「いずれ自分も死ぬことを忘れな」というラテン語の警句で、頭蓋骨など死を思いこさせるような物が象徴的に使われることが多い。『マグダラのマリア』にあった「悔悛のマグダラ」のモノクロ写真を思い浮かべた。「悔悛のマグダラ」に頭蓋骨はあっただろうか。

 そんなことが気になりながらも、年末年始の多忙とそれと重なりながらやって来たCOVID-19のなかでこの絵のことはしばらく忘れていた。ポストカードと一緒に買ってきた図録も一通り目を通しただけで自宅の書棚に収めたまま。COVID-19拡大のせいで美術館が相次いで休館になり始めたある日、飾り棚のポスターカードを見ながら思い出した。「カラヴァッジョ展」からあと展覧会にはいっていない。折からの乱読日和に『マグダラのマリア』を読み返してみることにした。『マグダラのマリア』を読み終わると当然のように「カラヴァッジョ展」の図録にも手が伸びた。

(3)

「法悦のマグダラのマリア」と「悔悛のマグダラ」とは同じ作品なのだろうか。推理してみよう。まずは作品の経歴から。図録の作品解説のところを見ると、「法悦のマグダラのマリア」がカラヴァッジョの真筆としてイタリアの新聞で公表されたのは2014年で、作品自体の初公開は2016年に上野の国立西洋美術館で開かれた「カラヴァッジョ展」でだった、とある。「悔悛のマグダラ」が掲載されている『マグダラのマリア』の発行は2005年だから、「法悦のマグダラのマリア」のカラヴァッジョ真筆の新聞発表や作品の初公開より前ということになる。つまり、『マグダラのマリア』発行の時点では、「法悦のマグダラのマリア」はカラヴァッジョの作品であるとは確認されておらず、あるいはその存在すらも公表されていなかったかもしれない。

図録の解説には、「法悦のマグダラのマリア」とよく似た「クラインのマグダラのマリア」と通称される作品が古くから知られている、とある。さらに、これらふたつの作品の相違点として解説で挙げられている幾つかのなかに、「クラインのマグダラのマリア」には頭蓋骨が描かれていない、とある。「悔悛のマグダラ」を改めて見た。モノクロなのでやはりはっきりとはしないものの、「法悦のマグダラのマリア」と同じ位置に頭蓋骨は描かれていないように見え、以前から知られているという「クラインのマグダラのマリア」の図柄に近そうだ。どうやら、「法悦のマグダラのマリア」と「悔悛のマグダラ」とは別の作品で、「悔悛のマグダラ」は「法悦のマグダラのマリア」とよく似た「クラインのマグダラのマリア」なのかもしれない。

もちろん著者に訊ねてみればいいだけの話ではあるのだけれど、手許の資料を頼りに推理を巡らせるのは、ディレッタントならでは楽しみ方、いや遊び方かな、でもある。『マグダラのマリア』では、その後も現在に至るまでマグダラのマリアは画家をはじめ様々な表現者たちにインスピレーションを与えてきたことが紹介されている。最近はじまったテレビドラマ『美食探偵』にも「マグダラのマリア」(小池栄子)が登場する。原作は東村アキコのマンガ『美食探偵 明智五郎』だ。どこまで制作者が意図したものなのかは分からないが、ドラマの放映が始まった4月12日はちょうど今年の復活祭の日に当たる。キリストの復活をテーマにした絵画には、磔刑図などと同様にキリストの周りに聖母マリアとマグダラのマリアとが、それはちょうどリマで「ヘスス・マリア」区と「マグダレナ・デ・マル」区とが並んでいるように描かれることが少なくない。それにしても、原作を読んでないので何とも言えないけれど、復活祭の日に放映が始まったのは単なる偶然だろうか。推理は尽きない。(富田与)

関連記事

受験生サイト
環境情報学部
情報センター
ページ上部へ戻る