時事雑感  New Normal

  • 2020/5/5

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 BBCのホームページにThe New Normalと題されたラジオ番組のストリームがシリーズで置かれている。BBCのジャーナリストWilliam Crawleyがベルファストから在宅で放送しており、番組は、毎回テーマを決めてそれに関係したゲストとの会話で進められる。しばらく前に、4月10日の初回から4月27日の第3回までを聞いた。ホームページのキャプションには、パンデミック前、パンデミック中、そしてパンデミック後の生活や人間性の見え方を考えながら、New Normal(「新しい常態」)とは何かを問う、とある。パンデミックの中で生まれた「新しい普通」あるいは「新しい日常」を指し示すこのNew Normalは、欧米各地で非常事態宣言の長期化が懸念されていた頃から、そうした状況への適応を示す表現として頻用されるようになった。日本の「新しい生活様式」に似ている。

The New Normalのホームページに入ると、まず、黄色を下地とした印象的なロゴが目に飛び込んでくる。黄色の下地に墨でなぐり書きしたようにThe New Normalの3語が三段に分かち書きされ、二段目のNewと三段目のNormalには悪戯がある。二段目では「N」と「e」、そして「e」と「w」の間に2m(メートル)と書かれた地図の縮尺のような手書きのスケールが挟まれている。Social Distancingのことだろう。三段目では「o」の字が大きめに書かれ中塗りされ所にマスクが描かれ人の顔のようになっている。黄色地に黒という色彩やグラフィティのような書体と悪戯の組み合わせを見ていると、まだ、仕掛けがあるかもしれないと探してはみるのだけれど、いまのところ未発見。

このロゴを見回しながら番組を聞いた。4月10日の1回目では、関係者の誰もが遠隔での収録は初体験のようで、技術的な不慣れから準備に手間取り、本来の担当とは違う意外な誰かが意外な作業をこなしている様子がそのまま放送された。その様子自体がテーマだったようだ。僕自身の遠隔授業の準備の混乱を思い出しながら、何処も同じか、と頷きながら聞いた。4月17日の2回目はスペイン風邪がテーマで、歴史家のIda Milneと作家のTony Macauleyをゲストにスペイン風邪から何が学べるかが語られた。確かにパンデミックという状況の類似性はもちろん、現状を表す表現としてしばしば使われる「戦争」や「戦時」という比喩についても第一次世界大戦と時期的に重なるスペイン風邪は、歴史的な参照点になる。新型インフルエンザで論文を準備したときに、僕自身もスペイン風邪の文献は何本か読んだ。とはいえ、ベルファストという地域的な事情を聴いたのは初めてで面白かった。そして、4月27日の3回目では、ベルファストでスーパーマーケットに働くGerryと家族でデリを経営するLauraをゲストに、番組のロゴにもあるSocial Distancingやマスク着用、ほかにもアルコール・ジェルの使用やキャッシュの扱い方など日本にもある買い物のNew Normalがテーマだった。店では体が触れ合うような挨拶が減りおしゃべりする人も少なくなったけれど、人当たりの優しい人が増えたという。確かに、我が家の買い物習慣も変わり、客が少なく割引商品の多い早朝に出かけるようになった。ただ、本当に客がいないので人が優しくなったかどうかは、分からない。

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 The New Normalを聞いていたら、アイルランドの作家ウィリアム・トレヴァーを思い出した。ベルファストという地名が僕のアーカイブでヒットしたようだ。何年か前からテロリズムの定義が気になっており、何本か論文も書いてはいるのだけれど、なかなかしっくりとした結論が得られていない。それならば実際に起きた事件を追いかけるのではなく、テロリズムが映画や文学作品のなかでどのように表現されているかを見てみようと、作家や作品のリストを作り始めたことがある。その中にトレヴァーの名前があった。ただ、実際に読んだ作品は短編ひとつだけで、それもまったくの偶然からだ。

 2年ほど前に講義か何かで使ったのだと言ってトレヴァーの短編「パラダイスラウンジ」のコピーを高田先生からいただいた。映画祭の打ち合わせの帰りだったか、最近気になっている文学作品が話題になり、高田先生がこの作品の話をし始めた時に、トレヴァーという名前には聞き覚えがあると言ったのを覚えてくれていたようだ。やはり読書仲間はありがたい。若いカップルと妙齢のカップルの2組が「パラダイスラウンジ」という名のパブで一緒になる。若いカップルは多弁で、それを聞く妙齢なカップルは口数が少ないのだけれど、時々交わされる会話のなかに、時代は変わり自由になった、といった話が何回か顔をのぞかせる。ストーリーにもしんみりと心打たれるのだけれど、僕には、1960年代に始まり90年代まで続いたThe Troublesの時代とそれ以後の時代の、人と人との関係の変化のようなものの方が、まず気になった。宗教対立などから暴力の絶えなかったThe Troublesの時代に一応の終止符を打ったのが「ベルファスト合意」だった。1998年のことである。 時代が変わった、と言ってしまえばそれまでだが、暴力のなかで緊張の絶えなかった時代を知る妙齢のカップルにとっては、おそらくベルファスト合意後に青春期を迎えていた若いカップルの振る舞いは、それが日常的なものだとするならば、ある種のNew Normalなのではなかろうか。違和感と日常性が同居し、自分たちの時代へのノスタルジーとNew Normalへの羨望のようなものがそこに重なる。「パラダイスラウンジ」では、2組のカップルの間には数十年という長い時間がある。今のパンデミックでは、数週間というごくごく短い間にOld NormalとNew Normalが共存を始め、しかもそれは2組のカップルのような世代の違う別の人間の間でではなく、ひとりの人間のなかで起きている。

New Normalという表現は2008年のリーマン・ショックの後にも使われた。含意が広範で明確な意味はつかみかねるのだが、いずれにしてもリーマン・ショック前には普通だったことがリーマン・ショック後には普通ではなくなった、というこのようである。1920年の米国大統領選挙で共和党のハーディングはReturn to Normalcy(「常態復帰」)を主張し当選した。第一次世界大戦の戦争状況から戦争ではない状況に戻ろうということだ。ちょうどスペイン風邪の直後でもある。そこでは少なくとも戻れる普通や日常が想定でき、それがNormalcy「常態」であった。今のNew Normalもかなり多様な意味で使われている。ただ、決してゆっくりではない、かなり急激な日常生活の変化があったのは認めざるを得ない。とはいえ、それがどの程度のものになるのかは、結論を急がない方が良さそうだ。

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The New NormalのロゴにあるSocial Distancingやマスクの着用といった行動は、日本では欧米ほどには特別なものではないのかもしれない。日本では、もともと人と人との距離は欧米ほどには近くはなく、マスクを着用することも特に気になる行為ではないだろう。

半世紀以上前になるが、米国の文化人類学者エドワード・ホールは「プロクセミクス」という言葉で「文化的な空間利用」を分析しようとした。そこには比較文化的な分析も含まれ、文化ごとに空間利用の在り様は違うという。確かに日常的なSocial Distancingを考えると、挨拶や会話の時にとられる人と人との距離は日本人と欧米人ではかなり違う。握手やフレンチ・キスあるいはハグを日常的な挨拶として交わす欧米などの文化圏では人と人との距離は短く、会話の時の距離も近いような気がする。アジア系の留学生と話していても日本人に比べて人と人との距離は短めだ。体と体が振れるぐらいの距離で話をすることも珍しくはない。僕にもその傾向が多少あるような気がするが、日本人でも外国生活の経験があったり外国人との交流が多かったりすると、会話の距離は短くボディタッチを伴う挨拶への抵抗も小さい。日本人でも、さすがに2メートル以上離れて会話することを習慣とする人は少ないかもしれないが、もともと会話距離が近い文化圏の人々に比べると、十分距離をとった会話も格別なものではないだろう。

これはマスクについても言えそうだ。COVID-19がまだフランスで猛威を振るうまえ、マスクをつけて道を歩いていた中国人女性が嫌がらせを受けたことが欧米メディアで大きく報じられた。幾つかの報道を取りまとめると、マスクを巡る習慣の違いが背景にはあったようだ。フランスなどでは、マスクは罹患者がつけるものという習慣があり、WHOなどもエヴィデンスのある話としてこの考え方を裏付けるような説明をしていた。これに対し、日本を含む東アジアでは、マスクは予防のためにつけるものと考えるのが一般的で、普通の風邪や季節性インフルエンザあるいは花粉症の予防にマスクをつけるのは日常の一部といってもいいだろう。つまり、マスクを使うことは多くの日本人にとってNew Normalというほどには特別なことではないような気がする。ただこのマスクは一筋縄では行かない。スペイン風邪に関する当時の日本の内務省衛生局の報告書『流行性感冒』を見ているとフランス等でも予防のためにマスクは使われていたようだし、スペイン風邪の研究者として知られる米国の歴史家クロスビーの『史上最悪のインフルエンザ』では、サンフランシスコなどでマスク着用条例が出されていた、とある。つまりマスク使用には、欧米であっても、New NormalというよりはVery Old Normalの復活といった側面もあるようだ。

同じ目的に向かって何かをしていると却ってそれぞれの個性が際立つことがある。やり方や考え方がかなり違う。パンデミックでも同じことが起こっている。各地からの報道を見ると、宗教、文化、政治などの人間集団に関わる違いや、世代、職業などの個人的な違いにより、パンデミック対応でのそれぞれの日常は大きく異なっている。日常すなわちNormalが多様だということだ。不要な摩擦を避けながらNew Normalにソフトランディングするには、この多様性とのつきあい方が次なる課題となりそうである。(富田与)

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