書評 フェイクニュースの周辺 3題 『真実の終わり』 『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』 『それを、真の名で呼ぶならば』

  • 2020/6/10

『真実の終わり』 ミチコ・カクタニ著(岡崎玲子訳) 集英社 2019年

 世界の民主主義が揺らぎ始めている。何年か前から前兆のようなものはあった。世界の報道からもそれは見て取れたが、それ以上にハンナ・アーレントの『全体主義の起源』に言及する論調が増えてきていたのが気がかりだった。この本でも「はじめに」の冒頭4行目から『全体主義の起源』の話がしばらく続く。この本に興味をそそられたのはそのことが大きい。「全体主義的統治の理想的な臣民は筋金入りのナチでも筋金入りの共産主義者でもなく、事実と虚構との区別(つまり経験の現実性)をも真と偽の区別(つまり思考の基準)をももはや見失ってしまった人々なのだ」というアーレントからの引用に続いて、カクタニは「このアーレントの言葉は、今日の読者にとって警戒すべきことに、別世紀からの伝言というよりも、私たちを取り巻いている政治的・文化的状況の、身の毛もよだつよう鏡になりつつある」と、いきなり核心をついてくる。新型コロナウイルスによるパンデミックと軌を合わせるように鏡像が随所で実像となって顕在化し始めた。

 しばらく前から国際関係の周辺では言葉や表現の欺瞞が常態化し、僕自身も何年か前からフェイクニュースに注視している。この本の目次をみると僕のそんな関心とも重なっていた。「理性の衰退と没落」、「新たな文化戦争」、「『わたし』主義と主観性の隆盛」、「現実の消滅」、「言語の乗っ取り」、「フィルター、地下室、派閥」、「注意力の欠如」、「『消火用ホースから流れ出す嘘』‐プロパガンダとフェイクニュース」、そして「他人の不幸を喜ぶトロールたち」。カクタニはこの本の主題をこう説明する。「何がトランプ時代の欺瞞の根底にあるのか。真実と理性は、どうしてこれほどまでに絶滅危惧種と化してしまったのだろうか。差し迫ったそれらの消滅は、私たちの公的な議論と、政治や統治の将来について、いかななる前兆を示しているのか」。確かにトランプ批判が主な議論となってはいるが、それにとどまらず、そこには同時代の世界の言葉や表現の欺瞞が集約されている。

 カクタニは米国生まれの日系二世の文芸評論家で、ニューヨーク・タイムズの文芸欄でその名前は見かけたが、白状してしまうと、カクタニの書評をじっくりと読んだことはなかった。この本を読み始めて、まず、書評を書き続けるというのはこういうことなのかと唸った。とにかく引用が多く、それに対するカクタニのコメントひとつひとつは引用もとの文献の文脈と現実の出来事や状況の文脈とを的確に取り結びながら、そこからカクタニ自身の批評が見え隠れする。ひょっとすると新聞の文芸欄では書きにくかったのかもしれない歴史や思想の古典などへの参照が次々に投入され、収められたひとつひとつのカクタニの文章に説得力と迫力を与え、丁寧につけられた引用注は読む者にとって未知の書物への確かな導線ともなっている。決して大部の本ではないのだけれど、数ページごとに読み返しながら読まざるを得ず、かなり読みごたえがあった。(富田与)

『「いいね!」戦争 兵器化するソーシャルメディア』 P.W.シンガー、エマーソン・T.ブルッキング著(小林由香利訳)NHK出版 2019年

  数年前からオムニバスの授業やオープンキャンパスの模擬講義でしばしばフェイクニュースをテーマにしている。そんな時には際物のようなテーマを選ぶことはせず、むしろ通常の講義で取り上げるほどには合理的な整理がなされていないテーマのなかから、近未来で重要性を持つような話題を、その意味では際物かもしれないけれど、拾うようにしている。フェイクニュースもそんなテーマのひとつである。特に、2016年のEU離脱に関する英国の国民投票と米国大統領選挙の後には、そうした講義には「あなたが武器になるとき」と言うタイトルを付けることが多くなっていた。

 この本は、そんな僕にとっては、我が意を得たり、といった内容で、それまで合理的整合性を付けるのに難儀していた事どもに整理のための筋道をつけてくれた。この本もやはり2016年の米国大統領選挙にまつわる話から書き起こされ、そこから、インターネットやSNSの技術的な歴史、それらの普及による世界の情報環境の変化、そしてそれらによる情報操作、プロパガンダ、フェイクニュースなどにテーマが広げられている。かなり多岐にわたる内容だが、「第1章、開戦、『いいね!』戦争とは何か」の最後に置かれている著者らが共有していた5つの原則が読み進める時の道案内役をしてくれる。(1)インターネットは思春期を過ぎた、(2)インターネットは戦場と化している、(3)インターネットの戦場は戦い方を変える、(4)この戦闘は「戦争」の意味を変える、(5)誰もがこの戦争の一部だ。

 パンデミックのなかでSNSやインターネットの利便性が高く評価されることが多くなった。その一方で色々な事件も起きている。この本のなかでは、素人からリアリティ番組を立ち上げ一時期は米国で話題となっていたプラットとモンダグがインタビューに答え、スマホの世界では誰もが編集者で理想の自分になるまでコメントや画像に修正を加え、誰もがリアリティ番組のスターとなり、そしてフェイクとなる、としている(p.252)。また、別のところで著者らは、「ソーシャルメディアを非常に特異で強力な存在にしているのは、それが双方向のマスコミュニケーションツールだという点だ。そこでの行為は全て個人的であると同時にグローバルでもある。したがって、オンライン上で自分の身を守るには、私たちも全員、他人を守るためにより広範囲の責任を負わなければならない。いってみれば咳エチケットのようなものだ」(p.430)とし、接触する人全員を「感染」から守らなければならないとしている。パンデミックでのNew NormalとSNSやインターネットでのNew Normalは良く似ている。

僕はいまだにSNSは意識的に使っていない。そんな僕も遠隔授業や遠隔会議などには加わっている。ただ、やはりSNSなどでの情報の発信や受信あるいは転送には抵抗がある。いや、自分の情報管理に自信が持てないと言った方が正確かもしれない。(富田与)

『それを、真の名で呼ぶならば』  レベッカ・ソルニット著(渡辺由佳里訳) 岩波書店 2020年

 パンデミックになってから無暗に新語が増えた。同じような意味なのに、その定義も曖昧なまま次々に新語が作り出されていく。新語というよりは新造語と言った方がいいのかもしれない。例えば、「新しい日常」、「新しい生活様式」、「行動変容」、「ニューノーマル」などなど、どれも似たような意味であるにもかかわらず、記者会見などでは政府や自治体が、外来の借用語もあるけれど、独自の用語のようにして使っている。社会的距離の確保、マスクの着用、手の洗浄、換気といった点が、それぞれの言葉の核心的な意味内容を構成している点では共通している。ただ、説明の仕方がそれぞれに違っているだけだ。

 この本ではそのタイトルから推察できるように「名前」がキーワードのようなのだけれど、初読後にはタイトルと内容にどうしても重ならないところが残るように感じた。しばらく措いて2回目に読んだ時に気が付いた。テーマは「名前」そのものではなく「真の名で呼ぶ」こと、つまり、何かに「真の名」を探して見つけた名前を「呼ぶ」つまり表現することにあるようだ。収められたエッセイ「ブレイク・ザ・ストーリー」の中でソルニットは「物書きの仕事は、ほかの誰かが建てた家の窓から外を眺めることではなく、外に出て家の枠組みに疑問を投げかけることです。あるいは、家を取り壊して中にあるものを自由にすることであり、視界から締め出されたものをほかの人が見えるようにすることなのです」と言っている。ソルニットにとって表現の方法は文章だけではない。この本のタイトルともなっている「そのものを真の名で呼ぶことにより、わたしたちはようやく優先すべきことや価値について本当の対話を始めることができる。なぜなら、蛮行に抵抗する革命は、蛮行を隠す言葉に抵抗する革命から始まるのだから」とする部分からは、表現は単なる一方的なメッセージの流れではなく対話の契機でもなければならないという、環境、人権、反戦などの活動家というソルニットのもうひとつの側面が伺える。

 それにしても、新造語はどこまで増えていくのだろう。造る方は何かを名付けたつもりでいるのだろうが、見聞きする側からすると曖昧さが増すばかりで、何かを隠そうとしているのではないかとすら疑いたくなる。実際、パンデミックの溢れる情報により、それまでならば大きく扱われたであろう出来事や情勢の変化を隠してしまうような、幾重にもなった情報のレイヤー(層)が生まれていることは確かだろう。以前にも情報の重層化はあったが、パンデミック以後にはそれぞれのレイヤーの透明度が落ち、重なったレイヤーたちを上から見ても下層のレイヤーが見えにくくなっているのは否定できない。

 現状全体を指し示すような名前にはそれを説明するためのストーリーが必要になる。急ぎ過ぎると不出来なストーリーたちが跋扈するようになりかえって混乱する。いま必要なのは、曖昧に定義した新造語を次々と繰り出したりすることではなく、ひとつひとつの状況を的確に指示すための名前を丁寧に見つけていくことであろう。(富田与)

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