時事雑感 メタファー(隠喩)の効用 ―前学期の講義から―

  • 2020/8/16

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 前学期末のレポート試験の採点がやっと終わった。例年ならばとうに終えている時期なのに、新型コロナ・ウイルスによるてんやわんやで今年は終戦記念日直前にまでもつれこんでしまった。以前このエッセイでも書いたことがあるが、今年の前期は4つの演習科目と、「国際関係論」と「フィールドワーク論」の2つ講義科目のすべてで、「パンデミック」を扱った。時事問題はとかく準備が容易そうに見られがちだが、実際にはかなり厄介だ。特に「パンデミック」は。どの授業の準備でも決まって言葉の問題に出くわした。「パンデミック」という言葉自体にはWHO(世界保健機関)などが考える一応の定義はあるが、それは「世界規模で拡大している新しい疾病」と至ってシンプルだ。当然だが、パンデミックのなかで実際に経験することはこのシンプルな定義だけでは説明しきれない。それは経済、政治、社会、そして文化に及ぶ多様な現象であり、しかも日常生活のかなりの部分に影響している。そのせいもあり、このエッセイでも何度か書いているが、さまざまな表現が粗製乱造されてはいるのだが、使い勝手の良いものはようとして見つからない。

さいわい、国際関係論とフィールドワーク論の講義には既に一定の枠組みがある。その枠組みを参照すれば乱舞する言葉たちの整理もはかどる。国際関係論では以前から使っている『国際紛争』を今年も予めテキストに指定していた。結果的に「紛争」特に「戦争」がキーワードとなった。フィールドワーク論は「社会調査士」の資格を得るのに必要な科目で、そのために求められる内容がある程度は決まっており、例年その中から文化人類学や日本民俗学に関わる部分を中心に話をしている。今年は「旅人」や「生活者」といったキーワードを抽出した。

こうして抽出した「戦争」、「旅人」、そして「生活者」というキーワードはいずれも、パンデミック以後の世界で使われるようになったパンデミックに関する表現と重なる部分が、実際、少なくない。「生活者」の意味範囲は多様だが、パンデミックを「戦争」や「旅行」に例え、パンデミックという「戦争」や「旅行」のなかにいる「生活者」はどんなことに注意すべきか、あるいはどんなことを考えるべきか、といった点がパンデミックでの「生活者」の指針と重ねながら表現されることが多い。そこでは、「戦争」や「旅行」をパンデミックのメタファー(隠喩)とすることで、経験した人もなく具体的なイメージも浮かびにくいパンデミックという状況から、「戦争」や「旅行」といった具体的なイメージがつかみやすい事柄を手掛かりに、パンデミックへの対処指針の抽出が試みられていると言っていいだろう。  

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 時々、急に耳学問をしたくなることがある。何年か前からそんな時にはTED(Technology Entertainment Design)のホームページに入ることにしている。1984年に始まったカンフェレンスがインターネット上で公開されるようになったのは2006年。様々な領域からのアイディアを紹介した公開プレゼンテーションのビデオが並べられている。ビデオの長さは色々で数分のものもあれば1時間以上のものもある。ごく最近、シンガポールの行政官で詩人のアーロン・マニアン(Aaron Maniam)の23分ほどのプレゼンを見つけた。プレゼンと言っても、TEDでも感染拡大防止策のために観客を前にしたステージでのプレゼンではなく遠隔会議システムを使ったプレゼンが増えている。このプレゼンもそうで、TEDの主任キュレーターのヘレン・ウォルターズ(Helen Walters)とマニアンとの対話形式で始まり、次にマニアンのプレゼンがあり、その後にさらに、TEDのデザイン・キュレーターであるシー・パールマン(Chee Pearlman)を交えたディスカッションへと続く。

テーマはメタファーと政策。僕が前期の講義で考えてきたことと似ている。パンデミックを表現するのに何をメタファーとするかでパンデミック対策に関する考え方が変わってくる、といった内容だ。マニアンはパンデミックのメタファーとして、「戦争」、「旅行」、そして「エコロジー」の3つを取り上げた。「戦争」は状況が緊迫していることや強制を伴う秩序維持の必要性を喚起するが、パンデミックに勝つとはどういうことなのか、何と闘っているのかは分からない。「旅行」は、一体どこに向かっているのかというパンデミック状況での不安の他に、旅の時に使う乗り物の違いつまりある者はファーストクラスの飛行機を使うかもしれないが、別の者は筏しか使えないと言った格差を喚起し、そして「エコロジー」は、パンデミックが自然との関係で発生しているばかりではなく、その時々にそれぞれの人が棲んでいる環境の違いがパンデミックでの生活状況の違いを生んでいることを思い起こさせるという。

 マニアンはこうしたメタファーが公共政策の考え方を形作ると考えている。確かに、「戦争」のメタファーは、新型コロナ・ウイルスの感染が各国で始まったころからしばしば使われてきた。おそらくごく初期の例としてしかも印象強く思い出されるのは、メルケル独首相の演説だろう。メルケル首相は、4月23日、議会下院で、「新型コロナ・ウイルスは第二次世界大戦以降で最大の国民の生命と健康に対する挑戦であり、自由の制限が民主主義への挑戦であり民主主義的な権利を制限するものであることは承知しているが、報道の自由など民主主義的な透明性がそうした事態も耐えうるものとしてくれるだろう」とする演説をし、その演説には大きな拍手が贈られた。パンデミックを「戦争」というメタファーと結び付けながら強制的措置の必要性を訴え、その公共政策が下院で受け入れられたと言うことだろう。メルケル首相は、直後のEU首脳会議でも同じような演説をしている。  

(3)

 国による緊急事態宣言が出されていた頃、日本でも「新型コロナ・ウイルスとの闘い」といった表現をしばしば耳にした。使われ方を見るとこれも「戦争」をメタファーとした表現のひとつのようだ。いまでも「闘い」という表現は見聞きするが、その一方で日本では「共生」あるいはそれに類した表現が、次第に頻用され始めているように見える。これは「エコロジー」をメタファーとした表現と言えるだろう。確かに欧米メディアでも”With Corona”といった表現は目にするようになってはいるけれど、日本ほどではないように見える。日本に限らず、パンデミックに関して使われるメタファーが「戦争」から「エコロジー」に変わりつつあるということかもしれない。

日本ではパンデミックに関わる公共政策については、国民の自発性を重んじたように見える「要請」という表現が頻用される。しばらく前のNHK-BSの番組Cool Japanで、この表現を取り上げていた。「世界が驚いた新型コロナのニュース」の時だ。参加する外国人からは強制的な政策を採らなくても要請に従う日本人の倫理観などを”Cool”だと称賛するコメントが少なくなかったのに対し、コメンテーターで博物学者の荒俣宏がした「日本人が要請に従わざるを得ないのは、日本には強制力のある政策を決めるなど責任をとらなければならないようなことをしたがる政治家がいないからだ」といった趣旨のコメントは強烈で、かつ、素直に頷けた。終戦の日が近くなると第二次世界大戦に関連したテレビ番組が増える。そんな番組のなかで今年も何度か「欲しがりません勝つまでは」という戦時中の標語を見聞きした。考えてみると、最近の「自粛」は、「欲しがりません勝つまでは」と翻訳してもあまり違和感はないのではなかろうか。そうだとすると、これも「戦争」のメタファーと繋がる表現なのかもしれない。にわかには思いつかないが、「要請」にも翻訳可能な戦時中の標語があるのだろうか。

 国際関係論とフィールドワーク論の2つの講義科目のレポートを読んでいると、講義の感想を課題にしているわけでもないのに、レポートの最後に講義の感想を書いてくれているものが少なくない。なかにはよく似た感想に出くわすこともある。表現はバラバラなのでお互いに写したものではなさそうだ。典型的で印象的だったのは、講義の中でパンデミックの新しい景色に出会いました、といった感想だ。いずれの感想からも伺えるのは、単に新しい情報に出会ったというのではなく、見方が変わったということだ。これから後は僕の想像だが、おそらく、幾つかの違ったメタファーを使いながらパンデミックという共通した経験を分析したのが功を奏したのではないだろうか。メタファーを使った時のバイアスは確かに気にはかかるのだが、性格がある程度はっきりとした幾つかのバイアスを通すことで、むしろパンデミックを多面的に捉えることができたのかもしれない。担当者の自画自賛だと言われれば、それまでではあるが。(富田与)

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